- 差別という暗い歴史である「ミンストレル・ショー」が、なぜジャズダンスにどう影響を与えたか。
- 身体のしなやかさを追求した「ソフトシューダンス」と、ジャズダンスやHIP HOPへ遺した遺伝子とは。
- 840年代から1900年にかけての50年間で、世界中のステップを貪欲に飲み込みんだジャズダンスの「骨格」とは。
前回の記事では、すべての原点となる「起源〜1840年代」の歴史を紐解き、1917年のジャズ誕生にいたるまで、ジャズミュージックとジャズダンスが全く同じ歴史をたどってきたことをご紹介しました。

今回は、まだ「ジャズ」という言葉すらなかった19世紀(1840年代〜1900年)を舞台に、現代のジャズダンスの元となった「ダンスのルーツ、発展と融合の歴史」を解説します。
元劇団四季、テーマパークダンサー。出演回数は5,000回以上。ダンス歴は25年以上です。実体験とリサーチをもとに、今なおジャズダンスの奥深さを学び、発信中。
※ 3分ほどで読み終わります。自身の実体験とリサーチに基づいた内容です。
ジャズダンスとは
本来の「ジャズ(Jazz)」とは、以下の3つの要素を組み合わせたものです。
✨ジャズの三要素
- 1 足のリズム
- 2 手のリズム
- 3 歌のリズム
そして、ジャズミュージックに合わせて踊るダンスこそが、ジャズダンスのもともとの意味です。
「Jass」というスラングで呼ばれていましたが、1917年にオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが世界初の商業ジャズレコードを発売したことで「Jazz」という言葉が世の中に浸透します。この流れを汲み、正式なダンスジャンルとして確立されました。
しかし、それ以前の19世紀(1840年代〜1900年)のアメリカでは、まだ「ジャズ」という言葉すらなかった時代から、のちのジャズダンスの母体となる「2つのルーツ」が爆発的な発展を遂げていました。それが以下のダンスです。
- ジッグダンス:アフリカのリズムとアイルランドのステップが融合した、のちのタップダンスの直接の起源となる踊り
- ソフトシューダンス:ジッグダンスから派生した、音を立てずにしなやかに床を滑るように踊る、はるか未来のムーンウォークをはじめとする「HIP HOP」の原点にもなる優雅な踊り
今回は、交わるはずのなかったこの2つのダンスが、ニューヨークなどの劇場舞台でどのように混ざり合い、現代のジャズダンスの基礎へと形を変えていったのか。その激動の変遷を深く解説していきます。

1830年代〜:熱狂と差別の狭間で生まれた「ミンストレル・ショー」
ジャズダンスの発展を語る上で、避けて通れない非常に複雑で暗い歴史があります。それが1830年代に生まれ、アメリカの大衆芸能を席巻した「ミンストレル・ショー(minstrel show)」です。

これは、白人のパフォーマーが顔を黒く塗り、黒人の奴隷生活や話し方、躍動的な踊りをおもしろおかしくコミカルに演じる、きわめて差別的なパフォーマンスでした。
流行の中心地:ニューヨーク・バワリー地区
南部プランテーション文化をモチーフにしながらも、エンターテインメント・ビジネスの中心地は南部の都市ではなく、ニューヨークの「バワリー(Bowery)地区」を筆頭とする北部の巨大都市でした。

1843年、ニューヨークの舞台で「バージニア・ミンストレルズ」という劇団が、4人編成による世界初のフル形式のミンストレル・ショーを上演します。キレのあるステップやユーモアは、瞬く間にニューヨークの観客を熱狂させ、アメリカ全土、さらに世界的な巡業へと広がりました。
1900年代以降は新しいエンタメの台頭により公演数がグッと減ることになりますが、1964年に差別を禁止する「公民権法」が制定されるまで細々と上演が続きます。
しかし皮肉なことに、このショーを通じてこれまで日の目を浴びなかった「ジッグダンス」や「ソフトシューダンス」が全米に広く知れ渡るきっかけとなりました。
ケーキウォーク:差別を超えて生まれた画期的なステップ
ミンストレル・ショーのフィナーレや最大の見どころとして、人気を誇ったパフォーマンスが「ケーキウォーク(cakewalk)」です。
これはもともと、南部のプランテーションで黒人奴隷たちが白人の主人たちの気取った歩き方をユーモラスに真似して踊り合ったのが始まりと言われています。これがコンテスト形式のショーとして発展していきました。
- 賞品は「丸ごと1個」の豪華なケーキ
よく「ケーキが一切れ与えられた」と言われますが、実際のコンテストの優勝者に贈られたのは、美しくデコレーションされた「丸ごと1個の豪華なケーキ」でした。ここから、最高のものをもぎ取る、際立って素晴らしいという意味の英語のスラング「take the cake(賞をさらう、一線を画す)」という言葉が生まれたほどです。
- ジャズダンスの骨格となるステップの誕生
胸をオーバーに張り、背中を反らせて高々と膝を上げて歩くこの踊りは、数々の画期的なステップを生み出しました。のちのジャズダンス特有の、身体を誇張して魅せるテクニックの骨格がここで形作られていきます。
黒人パフォーマーたちの深い葛藤と居場所のなさ
ミンストレル・ショーは大ヒットし、ニューヨークを中心に多くの白人スターを生み出しました。しかし、どれほど黒人文化の踊りが絶賛されても、本物の黒人パフォーマーの居場所はありませんでした。
後に出演が認められるようになりますが、黒人たちは「白人が作り上げた、差別的に誇張されたニセの黒人像」を、自分自身の顔にさらに黒い塗料を塗って演じることを強いられました。
この強烈な屈辱と葛藤から、才能ある黒人ダンサーたちはアメリカのエンタメ界を飛び出す決意を固めます。
ヨーロッパへの脱出:新天地で独自の進化
その人物こそが、本名をウィリアム・ヘンリー・レーン(William Henry Lane)という、のちに世界中のタップダンサーから「タップダンスの祖」として永遠に尊敬され続けることになるマスター・ジュバ(Master Juba)です。
ジュバはアメリカにいた頃、まだ十代という若さでありながら、ニューヨークのファイブ・ポインツ地区などのコンテストで並み居る白人ダンサーたちをことごとく圧倒。その唯一無二の超絶的なテクニックとリズム感の前に、周りのダンサーたちが完全に霞んで見えなくなってしまったと言われるほどの圧倒的な実力を持っていました。
チャールズ・ディケンズが遺した「衝撃の記録」
名作『オリバー・ツイスト』や『クリスマス・キャロル』で知られるイギリスの文豪チャールズ・ディケンズは、1842年にアメリカを訪れた際、ニューヨークで若きマスター・ジュバの踊りを偶然目撃しました。
ディケンズはあまりの衝撃に、旅の手記『アメリカ紀行』でこう記録しています。
「これまでにこれほど生命力に満ち溢れ、これほど軽快で、これほど素晴らしい奇跡のような足さばきを見せるダンサーがいただろうか。マスター・ジュバの足は、まるで独自の意志を持って床の上で音楽を刻んでいるようだ」
世界的な大文豪にここまで「凄かった」と言わしめた事実が、ジュバの天才ぶりを物語っています。
ロンドンでの大成功と「現代タップ」の幕開け
1840年代後半にロンドンへ渡ったマスター・ジュバは、イギリスの観客から熱狂的な大絶賛を浴び、ヨーロッパの演劇界で大成功を収めました。
それまでのアイルランド由来の「ジッグダンス」は、硬い靴底で一定のリズムを刻む伝統的なものでした。しかしマスター・ジュバは、そこにアフリカ由来のシンコペーション(変則的なリズム)や、全身をしなやかに波打たせる即興的なグルーヴを融合させました。
ジュバが次々と生み出した革新的なステップこそ、現在の「タップダンス」の直接の始まりです。
ジュバによってアフリカの魂とヨーロッパの身体技法が芸術としてブレンドされ、のちのブロードウェイ・ミュージカル、そしてジャズダンスの発展へと繋がります。こうしてアメリカとは異なる視点から、独自に深化していくことになりました。
わずか27年というあまりにも短い生涯を駆け抜けたマスター・ジュバですが、遺したステップの遺伝子は、現代のすべてのステージダンサーの中に今も脈々と生き続けています。
1845年〜:優雅なる消音「ソフトシューダンス」
激しい音を鳴らすジッグダンス(のちのタップダンス)が全米を熱狂させる一方、1845年頃、派生する形で「真逆の方向性」を持つ新たな動きが生まれます。
それが「ソフトシューダンス(soft-shoe dance)」です。
それまでのダンスは木靴や硬い革底で床を激しく踏み鳴らすものでしたが、このダンスはその名の通り、音の出ない柔らかい底の靴(ソフトシュー)を履いて踊られました。
- 地面に吸い付くような「流麗なグライド技術」
最大の特徴は、跳ねたり踏み鳴らしたりすることなく、足の裏をぴったりと地面につけたまま、滑るように、そして吸い付くように移動する独特のステップです。音を完全に消し去ることで、身体のしなやかさや、滑らかな移動の美しさを際立たせるという、スタイリッシュなスタイルです。
- はるか未来の天才、マイケル・ジャクソンへの系譜
この「床を滑るようにして、まるで重力がないかのように移動する」というソフトシューダンスの技術は、長い年月をかけ洗練されていきます。のちに世界を震撼させたマイケル・ジャクソンの代表的なステップ「ムーンウォーク(バックグライド)」へ受け継がれることになります。
足元の音を追求したジッグダンスがのちに「タップダンス」へと進化を遂げたのに対し、この音を消して身体の流れるような美しさを追求したソフトシューダンスこそが、のちに音楽と融合する「ジャズダンス」の遺伝子となりました。
1877年:ジョージ・H・プリムローズによる「上半身のパラダイムシフト」
1870年代までのジッグダンスやソフトシューダンスは、アフリカ由来の野生的なパワーや、アクロバティックなテクニックを競い合うストリート色の強いものでした。
ここに、現代のジャズダンスに直結する「最大の革命」を起こした人物がいます。それが、白人のトップダンサーであり興行主でもあったジョージ・H・プリムローズ(George H. Primrose)です。プリムローズはミンストレル・ショーのスターとして名を馳せた後、1877年に相方のウィリアム・ウェストとともに自身の劇団「Primrose & West」を立ち上げます。
プリムローズはここである革命を起こします。
・「ジャズダンスにバレエや社交ダンスの要素を融合させる」
「足元の技術競争」から「全身の様式美」へ
それまでの大衆ダンスは、激しく、荒々しく、下半身のステップの凄さばかりに焦点が当てられていて、上半身の姿勢や形は二の次でした。そこにプリムローズは、ヨーロッパの気品あるバレエや社交ダンスの技法を持ち込みました。
- 背筋を美しく伸ばした、ブレない姿勢:下半身が複雑なステップを踏んでいても、上半身は美しくコントロールされた洗練さを維持するスタイルです。
- 空間を描く優雅なアームズ(腕の動き):振り回していた腕に、「美しい軌跡とポーズ(形)」を取り入れます。
このように、目の肥えた観客を魅了する「洗練された舞台芸術(ステージダンス)」に生まれ変わりました。衣装にサテンのドレスやタキシードを取り入れ、ショー全体の品格を底上げしたのもプリムローズの功績です。
1881年〜:大衆エンタメ「ボードビル・ショー」の全盛期
1880年代に入ると、アメリカのエンターテインメントはさらなる黄金期を迎えます。ミンストレル・ショーの流れを汲みながら、より多彩で洗練された大衆演劇へと進化したのが「ボードビル・ショー(vaudeville show)」です。
これは「踊り、歌、手品、漫才、アクロバット、演劇」など、あらゆるパフォーマンスを1本の舞台に詰め込んだ、ノンストップのバラエティ・ショーでした。
もともとのルーツは15世紀フランスまで遡ります。ノルマンディー地方の谷の名前に由来する「ヴォー・ド・ヴィル(Vau de Vire)」、あるいは「街の歌声」を意味する「ヴォワ・ド・ヴィーユ(Voix de ville)」が言葉の語源と言われています。
1881年:トニー・パスターによる「クリーンな興行」への大転換
それまでのバラエティ舞台は、お酒を提供する荒っぽい酒場などで行われる、労働者男性向けの過激な出し物が中心でした。しかし、1881年、興行主のトニー・パスター(Tony Pastor)がニューヨークで「女性や子供連れのファミリーでも安心して楽しめる」という目標のもと、下品な表現を排除したクリーンな劇場ショーを立ち上げます。
大ヒットを記録し、アメリカにおけるボードビルの幕が上がりました。1880年代から1910年代にかけて、ブロードウェイ・ミュージカルが主流になるまで全米で爆発的な流行を見せることになります。

全米のパフォーマーたちは、ニューヨークのタイムズスクエアにある最高峰の聖地「パレス劇場」の舞台に立つことを夢見て、過酷な地方巡業を戦い抜いていました。1日に何ステージもこなすこの過酷なボードビルの環境から、数多くのテクニックとスタミナを兼ね備えた「超人的なスターダンサー」たちが次々と誕生します。
こうして、ダンスの技術水準が押し上げられていきました。
1890年代〜:聖地「ブロードウェイ」の誕生とミュージカルへの融合
ボードビルで磨き上げられたダンスのエネルギーは、19世紀末、演劇の聖地であるニューヨークの「ブロードウェイ(Broadway)」で、舞台芸術の最高峰「ミュージカル」と融合を果たします。
ブロードウェイにおける初の本格的なミュージカル作品は、1866年に上演された『ザ・ブラック・クロック(The Black Crook)』と言われており、そこから数十年をかけて劇場の近代化が進んでいきました。そして1890年代、それまでバラエティ・ショーの演目だったジッグダンス(タップ)やソフトシューダンスが、物語を紡ぐための重要な表現として本格的にミュージカル作品に取り入れられ始めます。
舞台芸術への深化
この融合により、ジャズダンスの歴史に大きな変化が起こります。ただ観客を驚かせるためのストリート的なテクニックだったダンスが、劇場という空間で「作品の世界観を表現するための動き」へ深化していったのです。
- 劇場の空間を広く使うフォーメーションの意識
- 照明に映える洗練されたステップとポーズ
- 演目のストーリーや感情とシンクロする表現力
こうして、洗練された「魅せる様式美」を意識したステージダンスとしての骨格が、ブロードウェイの地で一気に形成されていきました。
1899年には、劇場事業家であるオスカー・ハマースタイン1世(Oscar Hammerstein I)がブロードウェイに「ビクトリア劇場(Victoria Theatre)」を建設。これにより、ブロードウェイは名実ともに世界一のエンターテインメントの中心地として不動の地位を築くことになります。
大衆の熱狂から生まれたジッグダンスやソフトシューダンスは、こうして劇場の舞台へと駆け上がり、1900年代の「ジャズミュージックとの出会い」に向けて、準備を完了させました。
1862年〜:ホームステッド法とスラブ舞踊の合流、そして「ジャズダンス」の夜明けへ
ここまで、ニューヨークのバワリー地区やブロードウェイを舞台にしたダンスの進化を見てきましたが、この時代、アメリカのエンタメに影響を与えたのは黒人とアイルランド人の文化だけではありませんでした。
1862年、アメリカで「ホームステッド法(Homestead Act)」という法律が制定されます。これは、アメリカ西部の未開発の土地「1区画 160エーカー(約65ヘクタール:東京ドーム約14個分)」を、5年間耕作することを条件に、移民も含めた希望者へ無償で提供するという大胆な国策でした。
この「アメリカンドリーム」を掴むため、19世紀後半、ヨーロッパから膨大な移民が押し寄せます。
1860年代から1900年までの40年間で、アメリカに渡った移民の数はおよそ1,400万人。これは当時のニューヨーク市の人口を何倍も上回る、歴史上最大規模の民族移動でした。
その中に、ロシアやウクライナ、ポーランドといった東欧を出身とする「スラブ系」の住民たちが数百万人含まれていました。
スラブ舞踊がもたらした「アクロバティックな身体技法」
スラブ系の住民たちがアメリカに持ち込んだ「スラブ舞踊(コサックダンスなど)」は、低くしゃがんだ姿勢から足を交互に突き出すステップや、高く跳躍して空中で身体をひねる、アクロバティックでダイナミックな動きが数多くありました。
劇場で常に「新しい、観客を驚かせるステップ」を求めていた当時のダンサーたちは、このスラブ舞踊の派手な技を、自分たちのジッグダンス(タップ)の中に積極的に取り入れていきます。
スラブ系だけでなく、イタリア、ユダヤ、ドイツなど、世界中からニューヨークへ集まった無数の移民たちの民族ダンスが、ジッグダンスやソフトシューダンスという貪欲な器の中に次々と溶け込んでいきました。
さらに深く学びたい人へ:おすすめの参考文献・書籍
ジャズダンスの歴史をさらに深掘りしたい方にオススメの書籍を紹介します。
1:歴史をさらに深く知るなら
『世界史はジャズで踊る』(文春新書 1527)
- 著者:村井 康司
- 出版社:文藝春秋
- こんな人にオススメ:ジャズ音楽の起源、アメリカ芸能史、黒人文化のドラマを立体的に学びたい方
- プロの視点:抑圧された歴史の中から生まれたジャズが、どのように世界を熱狂させていったのかが描かれています。この記事でご紹介したように、1917年のジャズ誕生にいたるまで、ジャズミュージックとジャズダンスは全く同じ歴史をたどるため、あなたの知的好奇心を強く刺激してくれる一冊です。
1,500円ほど。
2:「身体表現」を自分の肉体に落とし込むなら
『ダンス解剖学 第2版』(新スポーツ解剖学シリーズ)
- 著者:ジャッキー・グリーン・ハース
- 訳者:水村 真由美
- 出版社:ベースボール・マガジン社
- こんな人にオススメ:ダンサー、ダンスインストラクター、怪我をしない身体の正しい使い方を追求したい方
- プロの視点:アフリカンダンスのルーツである「低い重心(ダウン)」や、ジャズダンスに不可欠な「アイソレーション(身体の各部の独立運動)」を正しく体現するには、骨格や筋肉の構造をロジカルに理解することが不可欠です。イラストでダンサーの身体のメカニズムを網羅しています。
3,000円ほど。
まとめ:すべての点と線が、1900年代の「ジャズ」の渦へ
今回は、1840年代から1900年にかけての、ジャズダンスの「骨格」が作られた50年間を紹介しました。
ダンスの技術、表現力、そして舞台芸術としての様式美。すべての準備が、1900年代のニューヨーク、そして南部の都市ニューオーリンズで整いました。
次回、この磨き上げられた技法が、「ジャズミュージック(JAZZ)」と出逢い、「ジャズダンス」として誕生する1917年を紹介します。

ジャズダンスの歴史の記事一覧は、こちらの目次ページをご覧ください。


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