この記事からわかる3つのポイント
・ジェローム・ロビンズは、『ウエスト・サイド・ストーリー』の振付家・演出家
・ブロードウェイミュージカルと、クラシックバレエを融合させた人物
・「赤狩り」の時代に翻弄され、仲間を告発した過去と作品の関係
ジェローム・ロビンズは、ブロードウェイの華やかなミュージカルとクラシックバレエの世界を融合させた、20世紀を代表する振付家です。都会的なエンターテインメント性にあふれた振付は、ダンス表現の幅を大きく広げました。『ウエスト・サイド・ストーリー』『王様と私』『屋根の上のヴァイオリン弾き』など数多くの名作を生み出しました。
本記事では、ロビンスの生い立ち、経歴、振付の裏側にあるストーリー、そして赤狩り(マッカーシー時代)の影響について、わかりやすく解説します。
元劇団四季、テーマパークダンサー。舞台、特にバレエを観に行くのが大好きで、年間100公演観に行った記録があります。
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ジェローム・ロビンズ|Jerome Robbins
ジェローム・ロビンズは、1918年にアメリカで生まれ、幼少期からダンスに親しみました。モダンダンス、クラシックバレエの訓練を受け、その後ブロードウェイのミュージカル界へと進出。『ウエスト・サイド物語』をはじめとする大ヒット作品を通じ、ダンスとドラマを融合させた新しい振付スタイルを確立しました。
バレエ界へ
ロビンズは、ブロードウェイだけでなく、ニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB)でも振付家として活躍。クラシックバレエの伝統と、現代の物語を融合させることで、独自の表現方法を打ち立てました。彼の振付は、キャラクターの感情を豊かに表現し、舞台上での物語性を高めるものとして高く評価されています。
また、ロビンズのバレエ振付は、クラシック音楽だけでなく、当時流行していたジャズやポピュラー音楽を取り入れることで、舞台上に新たな風を吹き込みます。ダンサーの個性を活かしながらも、観客にストーリーや感情をダイレクトに伝える作品を数多く生み出し、その独自の美学は今なお世界中で評価されています。
下記動画は、サンフランシスコ・バレエ団が公開しているロビンズのインタビュー映像です。彼自身の肉声で、創作への「執念」が語られています。動画の下に対訳を載せています。
何もない舞台について: 「振付家にとって、何もないリハーサル室は、画家にとっての真っ白なキャンバスのようなものだ。最初のあの一歩をどこに置くか、そこから全てが始まる。それはスリリングな体験だよ」
音楽への没入: 「既成の音楽を使うときは、振付の何ヶ月も前からスコア(楽譜・曲)を研究する。起きている時も、寝る時も、髭を剃っている時でさえ音楽をかけ続けるんだ。音のニュアンスを一つも聞き逃さないよう、身体に染み込ませるためにね」
ダンサーとの共同作業: 「振付は私とダンサーとのコラボレーションだ。私は彼らからインスピレーションをもらっている。彼らの身体がどう動くかを見て、即興的に試しながら鍵を探していくんだ」
厳しさの理由(真実の追求): 「私はダンサーに無理な動きを押し付けたりはしない。ただ、私はあらゆる状況から『真実(truth)』を引き出したいと思っている。だから時に『奴隷使い(厳しい指導者)』だなんて呼ばれることもあるけれどね」
表現の明確さ: 「あやふやなものを舞台に乗せてはいけない。作り手である私が深く入り込み、心から感じることができれば、それは観客にも明確に伝わるはずだ。シンプルだが、そういうことなんだ」
『ウエスト・サイド・ストーリー』について(1:56〜): 「正直に言って、『ウエスト・サイド・ストーリー』こそが、私が生涯をかけて目指してきた演劇の形だ。音楽、言葉、歌、ダンス、照明……すべての芸術を融合させ、単に楽しむためだけのものではなく、『シリアス(真剣)』な何かを伝えるための作品なんだ」
創作の喜び: 「私はバレエを作るのが好きなんだ。時間と空間の中で、ダンサーの身体と身体の関係性が生まれていくのを見るのがね。何もない空間から、動きを通じて何かが築き上げられていく。そこに喜びを感じているよ」
経歴
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1918年10月11日 – ニューヨーク生まれ
本名はジェローム・ラビノウィッツ(Jerome Rabinowitz)。「ユダヤ人と一目でわかる名前は不利になる」というアドバイスをピアニストのグラック・シャーンドルを受け、芸名「ロビンズ」を採用しました。正確な発音は「ロビンス」ではなく、「ロビンズ(/ˈrɑːbɪnz/)」です。 -
1933年 – 高校時代からモダンダンスに挑戦し、初期の表現力を磨く。
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1936年 – 経済的理由でニューヨーク大学を1年で退学。
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1937年 – グラック・シャーンドル・カンパニーに入団。ここでバレエ、民族舞踊、そして振付を学び、基礎を固めました。
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1940年 – バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター:ABT)に入団。多様なジャンルのダンスに触れることで、振付スタイルがより豊かになりました。
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1944年 – 『ファンシー・フリー』を発表。この作品は、その後ミュージカル『オン・ザ・タウン|邦題:踊る大紐育(おどるだいニューヨーク)』となり、1949年には映画化もされました。
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1949年 – ニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB)の副バレエ・マスターに就任。振付作品はクラシックバレエと、ブロードウェイの両面で高く評価されるようになりました。
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1983年 – ジョージ・バランシンの死後、ピーター・マーティンスと共にNYCBの芸術監督に就任。
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1990年 – 芸術監督から引退。その後も彼の影響は多くの振付家やダンサーに受け継がれています。
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1998年7月29日 – ジェローム・ロビンズはこの世を去りました。
代表作は『ウエスト・サイド・ストーリー』や『ファンシー・フリー』などですが、彼は生涯で数多くの作品を遺しています。 全作品のリストや初演年などのデータは、こちらの記事にまとめています。
ミュージカル作品|トニー賞受賞
ロビンズは、ミュージカルの振付において数々の輝かしい実績を残しています。
- 1948年
『ハイ・ボタン・シューズ』で最優秀振付賞を受賞。 - 1958年
『ウエスト・サイド・ストーリー』で最優秀振付賞を獲得。 - 1965年
『屋根の上のヴァイオリン弾き』で最優秀演出賞および最優秀振付賞を受賞。 - 1989年
『ジェローム・ロビンズ・ストーリー』で最優秀演出賞を受賞。
下記は、1989年のトニー賞の映像です。ジェローム・ロビンズの名場面集である『ジェローム・ロビンズ・ストーリー』です。
振付に変更はありますが、『王様と私』『ウエスト・サイド・ストーリー』『屋根の上のヴァイオリン弾き』などの名作は今日もなお上演され続けています。
ロビンズ|振付の特徴
多彩なダンススタイルの融合
ロビンズは、モダンダンスや民族舞踊の影響を受けていますが、基礎となっているのはクラシックバレエです。バレエと様々なジャンルのダンスを融合させることで、新たな表現方法を模索しました。中には日本人の新村英一(英語表記:Nimura Yeichi)にも師事した、というエピソードが残っています。ロビンズはブロードウェイとクラシックバレエの両面の美学を巧みに融合させ、独自の「ストーリーを語るダンス」を創り上げました。
プロットレスバレエと短編作品
ニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB)において、ロビンズは物語性のない「プロットレス(訳:脚本のない)バレエ」や、30分から1時間弱の短い作品を多く創作しています。バレエに振れたことのない観客が気軽に楽しめるよう、1公演で3作品を楽しむ「トリプル・ビル」という形式はNYCBでは定番となり、現在も定番として親しまれています。
ミュージカルのエッセンス
ロビンズは、もともとミュージカル作品として生み出した『ウエストサイド物語』を、1995年に『ウエスト・サイド・ストーリー組曲』としてバレエ作品に再構成しています。ミュージカルにバレエを取り入れ大ヒットした『ウエストサイド物語』。今度は逆輸入という形でミュージカルのエッセンスをバレエに取り入れました。こうした試みは、従来のバレエの枠を超えた新たな表現を生み出し、ダンスの可能性を大いに広げました。
ニューヨーク・シティ・バレエ団による紹介動画です。
演出家の側面|細部へのこだわり
ジェローム・ロビンズは、細部にまで徹底したこだわりを持つ演出家としても名高いです。彼は『ウエストサイド物語』の監督も務めています。撮影前、カメラの特性を最大限に活かすため、空間の使い方やセットのレイアウトを綿密に研究していました。
また、ロビンズは舞台上のアンサンブルの扱いにも革新的なアプローチを取っています。通常、脇役の役者は「住民1」などの無名の設定で登場するのが一般的ですが、『ウエスト・サイド・ストーリー』では、出演するすべての役者に個別の役名を与え、細かいキャラクター設定を徹底的に考えさせることで、全体の物語性を高めています。
伝説的なエピソードとして、ミュージカル『アニー』の現場での出来事があります。プロデューサーのマイク・ニコルズが、あるシーンで笑いが取れず困っていた際、ロビンズがアドバイスを求められました。「セットの後ろにある白いタオルを黄色に変えたらいい」とアドバイス。その結果、シーンの雰囲気が一変し、笑いが生まれたと言われています。
しかし、この徹底したこだわりが『ウエストサイド物語』の撮影の遅延や予算の膨張を招き、制作陣との摩擦が生じます。キャストとの関係は良好であったものの、ロビンズ自身は降板に追い込まれ、『サウンド・オブ・ミュージック』の監督として有名なロバート・ワイズと交代することとなりました。ただし、1961年映画版では、ロビンズが振付やステージングを完全に仕上げた状態で撮影されたため、彼の芸術は全編にわたって色濃く表現されています。
このように、ロビンズは単に振付家としてだけでなく、演出家としても舞台の細部にまでこだわり、革新的な表現を追求してきました。
赤狩りと「裏切り」の影
1950年代、アメリカに吹き荒れた「赤狩り(マッカーシズム)」。共産主義者を社会から排除しようとするこの運動は、ハリウッドやブロードウェイにも暗い影を落としました。
ジェローム・ロビンズもまた、下院非米活動委員会(HUAC)に召喚された一人です。そこで彼は、自らのキャリアを守るため、かつての仲間8人の名前を委員会に告発しました。
彼が仲間を売った背景には、当時アメリカで犯罪視されていた「同性愛」を暴露すると脅された(いわゆるブラックメール)事実があったと言われています。 もし拒否すれば、彼はダンサーとしてのキャリアも、社会的な立場もすべて失うことになっていたと予想されます。彼は究極の選択の末、仲間を犠牲にして生き残る道を選びました。
この「裏切り」は、演劇界に大きな亀裂を生みました。多くの仲間から無視され、軽蔑されながら、彼は創作を続けなければなりませんでした。
孤独が生んだ傑作『ウエスト・サイド・ストーリー』
興味深いことに、ロビンズの代表作『ウエスト・サイド・ストーリー』が生まれたのは、この事件の数年後(1957年)です。
かつて『踊る大紐育(1944年)』で見せた底抜けに明るいユーモラスな世界観とは異なり、『ウエスト・サイド・ストーリー』には、社会の分断、差別、そしてやり場のない怒りが満ちています。
800円ほど。
1957年の『ウエスト・サイド・ストーリー』では社会的なテーマに移行しています。
ジェット団とシャーク団が互いに憎しみ合い、対立する緊張感。もしかすると、ロビンズ自身が赤狩りを通して味わった「疑心暗鬼」や「孤独」、そして誰にも言えない罪悪感が投影されているとの分析もあります。
ロビンズを軽蔑しながらも、共に作品を作り上げた脚本家や作曲家たち。 現場のピリピリとした人間関係と、ロビンズの個人的な苦悩が、奇跡的に化学反応を起こし、痛切で美しい傑作が誕生したとも言えます。
こうした背景は、ロビンズの振付が単なるエンターテインメントに留まらず、観客に深いメッセージを伝える手段として評価される一因となっています。
4,000円ほど。
書籍
ロビンズを理解しやすい本を紹介します。
3,000円ほど。
今回は、「ジェローム・ロビンズ」について紹介しました。
バレエ作品に関してはこちらにまとめています。ぜひご覧ください。








