この記事からわかる3つのこと
・『白鳥の湖』の主要バージョンの系譜と初演年が一覧できる
・結末や演出の違いのポイントがすぐつかめる
・これから観るならどの版? のヒントが得られる
バレエ『白鳥の湖』は、1895年初演のプティパ=イワノフ版を土台に、国や時代ごとに結末も演出も異なる多数のバージョンが生まれてきました。
プティパ=イワノフ版を継承するバージョン、王子の心理劇としてのバージョン、現代に舞台を移したバージョン、男性スワンによる衝撃的リメイクまで、その幅は驚くほど多彩です。
今回は、主要な『白鳥の湖』の初演年・振付家・劇場を一覧で押さえつつ、どこがどう違うのかを手早く整理しています。鑑賞前の予習にも、見比べのガイドにも使える実用まとめです。
元劇団四季、テーマパークダンサー。舞台、特にバレエを観に行くのが大好きで、年間100公演観に行った記録があります。
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基本情報
『白鳥の湖』は、チャイコフスキー作曲の古典バレエです。美しい白鳥の娘と若き王子の愛と犠牲の物語は、多くのバレエファンの心を捉え続けていて、現在も新たな解釈を加えたバージョンが作られ続けています。
1877年にモスクワのボリショイ劇場で初演された後(失敗とされる)、1895年にサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場でプティパ=イワノフ振付による復活上演が成功し、古典バレエの決定版となりました。
物語は王子ジークフリートと白鳥の王女オデット、魔法で翻弄するロットバルト、王子を惑わす黒鳥オディールを中心に展開します。見どころは、第2幕の「白のパ・ド・ドゥ」、第3幕の「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ(32回転)」、そして白鳥の群舞(コールド)の精度と美しさです。
▶︎ さらに詳しくはこちら:『白鳥の湖』ガイド(初心者〜中級者向け)
チャイコフスキーの想定
1877年、ボリショイ初演の台本では、第4幕でジークフリートがオデットの冠を湖へ投げ込み、梟(ふくろう:ロットバルトの化身)が冠をつかむと、オデットは王子の腕の中で息絶え、増水した湖にふたりとも呑み込まれてしまいます。水が引いた後、静かな湖面を白鳥が泳いでいくという悲劇でした。
その後、1895年マリインスキー「復活版(プティパ=イワノフ/ドリゴ改訂。作曲者没後)」においては、ふたりが自ら湖に身を投げ、悪の力が滅びます。愛が勝つ展開であるものの、ふたりの死という昇天(アポテオーズ)の悲劇で幕を下ろします。
チャイコフスキーは、愛ゆえの自己犠牲で終わる悲劇を想定して作曲しています。のちの改訂版で多種多様な結末を生んでいますが、出発点は明確に悲劇でした。
そして大きく変わるのが、1920年のボリショイ・バレエ団「ゴルスキー版」以降です。ソ連時代の影響で結末が「悪(ロットバルト)に勝利し恋人たちが救われる」という内容に変更されます。これは社会主義リアリズムの「楽観的な結末」と整合するためです。
日本への波及:1950年代以降
1957年、ボリショイ・バレエ団が初来日します。「戦後最大の熱狂」と記されたほどの社会的事件で、以降バレエ団の来日ラッシュを含む文化交流が、日本のバレエ界に大きく影響します。その流れで設立された「チャイコフスキー記念東京バレエ学校」(「東京バレエ団」の母体)には、ソ連系の指導者が関わり、『白鳥の湖』の上演もソ連系のバージョンが根付いていきます。
そのため、日本ではハッピーエンド版が主流となっています。
各国主要バレエ団による『白鳥の湖』のバージョン比較
『白鳥の湖』の音楽と物語はもう著作権が切れている(日本は原則「作者の死後70年」)ため、上演や再解釈は自由にできます。そのため、世界中のバレエ団がそれぞれ特色ある『白鳥の湖』のプロダクション(上演版)を持っています。
代表的なバージョンだけでもこれだけあります。
| 初演年 | 振付師 | バレエ団 | 劇場/都市 |
|---|---|---|---|
| 1895年 | マリウス・プティパ レフ・イワノフ |
マリインスキー・バレエ団 | マリインスキー劇場/サンクトペテルブルク |
| 1901年 | アレクサンドル・ゴルスキー | ボリショイ・バレエ団 | ボリショイ劇場/モスクワ |
| 1933年 | アグリッピナ・ワガノワ | キーロフ・バレエ団(現:マリインスキー・バレエ団) | キーロフ劇場(現:マリインスキー劇場) /レニングラード(現:サンクトペテルブルク) |
| 1934年 | ニコライ・セルゲーエフ | ヴィック・ウェルズ(現:英国ロイヤル・バレエ団) | サドラーズ・ウェルズ劇場/ロンドン |
| 1950年 | コンスタンチン・セルゲーエフ | キーロフ(現:マリインスキー・バレエ団) | キーロフ劇場/レニングラード |
| 1951年 | ジョージ・バランシン (1幕物) |
ニューヨーク・シティ・バレエ団 | シティ・センター/ニューヨーク |
| 1953年 | ウラジーミル・ブルメイステル | スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ劇場バレエ | 同劇場/モスクワ |
| 1963年 | ジョン・クランコ | シュツットガルト・バレエ団 | シュツットガルト歌劇場/シュツットガルト |
| 1964年 | ルドルフ・ヌレエフ | ウィーン国立歌劇場バレエ団 | ウィーン国立歌劇場/ウィーン |
| 1969年 | ユーリー・グリゴローヴィチ | ボリショイ・バレエ団 | ボリショイ劇場/モスクワ |
| 1976年 | ジョン・ノイマイヤー | ハンブルク・バレエ団 | ハンブルク州立歌劇場/ハンブルク |
| 1981年 | ピーター・ライト (共同:ガリーナ・サムソワ) |
サドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエ (現:バーミンガム・ロイヤル・バレエ団) |
サドラーズ・ウェルズ劇場/ロンドン |
| 1984年 | ルドルフ・ヌレエフ | パリ・オペラ座バレエ団 | パレ・ガルニエ/パリ |
| 1987年 | アンソニー・ダウエル | 英国ロイヤル・バレエ団 | ロイヤル・オペラ・ハウス/ロンドン |
| 1995年 | マシュー・ボーン | アドベンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズ (現:ニュー・アドベンチャーズ) |
サドラーズ・ウェルズ劇場/ロンドン |
| 1999年 | ピーター・マーティンス | ニューヨーク・シティ・バレエ団 | ニューヨーク・ステート・シアター(現:デヴィッド・H・コーク・シアター) /ニューヨーク |
| 2000年 | ケヴィン・マッケンジー | アメリカン・バレエ・シアター(ABT) | ケネディ・センター・オペラハウス/ワシントンD.C. |
| 2001年 | ユーリー・グリゴローヴィチ(新版) | ボリショイ・バレエ団 | ボリショイ劇場/モスクワ(結末を悲劇に改訂) |
| 2002年 | グレアム・マーフィー | オーストラリア・バレエ団 | ステート・シアター(アーツ・センター・メルボルン)/メルボルン |
| 2016年 | アレクセイ・ラトマンスキー | チューリッヒ・バレエ団 | オペルンハウス・チューリッヒ/チューリッヒ |
| 2018年 | リアム・スカーレット | 英国ロイヤル・バレエ団 | ロイヤル・オペラ・ハウス/ロンドン |
この中からオススメの「版」を紹介します。
ボリショイ・バレエ版(モスクワ)
ロシア・モスクワの名門ボリショイ・バレエ団では、ソ連時代から受け継がれた独自の『白鳥の湖』が発展してきました。特に有名なのがユーリー・グリゴローヴィチによる改訂版です。グリゴローヴィチは1969年にボリショイ劇場で『白鳥の湖』を発表し、以後ボリショイの看板レパートリーとして長年上演されました。ラストシーンで王子がロットバルトを打ち倒しハッピーエンドを迎える勧善懲悪の結末です。ソ連時代、政府の意向から「善が悪に勝利する結末」、すなわち王子と白鳥が生き延びて結ばれる結末が好まれた歴史的背景があります。グリゴローヴィチ版はこの指示を反映していて、王子がロットバルトに殺されそうになるもののオデットの愛の力で逆転勝利するという結末です。このソ連版が日本に取り入れられたため、多くの日本のバレエ団の結末に影響を与えています。このグリゴローヴィチ版では、ロットバルトの踊る場面が多く取り入れられたのも特徴で、ボリショイらしいダイナミックさが際立ちます。
その後、2001年にグリゴローヴィチ自身が演出を改訂し、新版では悲劇的結末へ変更されました。現在上演されているグリゴローヴィチ新版では、最終幕で王子はロットバルトに敗北しオデットは連れ去られてしまうという、悲恋に終わる幕切れになっています。愛の誓いを破った罰として王子が一人嘆きに暮れるエンディングは非常に切ないバッドエンドです。音楽面でも新版では第4幕のクライマックスであえて有名な「情景」のテーマが流れるアレンジが加えられています。
ボリショイ版は時代に合わせて結末が変更されてきましたが、豪快で華やかなボリショイ・スタイルは一貫しています。ボリショイのダンサーは大柄でパワフルな舞踊を得意とし、第3幕での王子のソロ(バリエーション)にオリジナルの曲(「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」の男性ソロ曲)を用いるなど、細部にも独自色があります。衣装や演出もモスクワ的な豪華さがあり、「ロシアの誇り」にふさわしいスケールの大きい『白鳥の湖』と言えます。
マリインスキー・バレエ版(サンクトペテルブルク)
サンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエ(旧称:キーロフ・バレエ)は、『白鳥の湖』発祥の地と言えるバレエ団です。1895年にプティパ=イワノフ版を初演した伝統を持ち、その後も幾度か改訂が行われましたが、なかでもアレクサンドル・ゴルスキー&フョードル・ロプホフ版(1920年代)やコンスタンチン・セルゲーエフ版(1950年初演)が長く受け継がれてきました。とりわけセルゲーエフ版はプティパ=イワノフ版の雰囲気を大切に守りつつ、写実的な演出を取り入れたのが特徴で、結末は王子とロットバルトの一騎討ちでロットバルトの翼をもぎ取って倒すというものになっています。
実際、現在のマリインスキー版『白鳥の湖』でもクライマックスで王子がロットバルト(フクロウの化身)の片翼を引きちぎり、悪の魔力を打ち破るハッピーエンドの演出が主流です。翼をもがれたロットバルトが苦しみながら倒れる中、呪いの解けたオデットが人間に戻って王子と結ばれるという結末で、勧善懲悪が明快に描かれます。
マリインスキー版の魅力は、ペテルブルク伝統の優美さにあります。ボリショイに比べると上品で洗練された踊りが多く、群舞のフォーメーションもゆとりを持って見せる傾向があります。また音楽的にもオーソドックスで、チャイコフスキー原典の楽曲構成を重視するスタイルです(例:第3幕の「黒鳥のパ・ド・ドゥ」で、初演版追加の音楽を用いる版も保持しています)。衣装や美術も伝統的で、白鳥たちのチュチュは純白や淡い色、王子の衣装は優雅な宮廷風と、古典主義の美観が貫かれています。マリインスキーのスターたちの演じるオデット/オディールは、気品と芸術性で世界を魅了してきました。伝統を誇るマリインスキー版は「ロシア宮廷バレエ」として一見の価値があります。
アグリッピナ・ワガノワ版(サンクトペテルブルク)
もう一つ忘れてはいけないのが1933年、レニングラードのキーロフ劇場(現:マリインスキー)でアグリッピナ・ワガノワが新制作した『白鳥の湖』です。音楽構成:ボリス・アサフィエフ、演出顧問:セルゲイ・ラドロフ、指揮:エフゲニー・ムラヴィンスキー、美術・衣裳:ウラジーミル・ドミトリエフという顔ぶれです。初演キャストには、ガリーナ・ウラノワ(オデット)、オルガ・ヨルダン(オディール)、コンスタンチン・セルゲーエフ(ジークフリート)が名を連ね、オデットとオディールを別キャストで踊らせる革新的な配役です。舞台を1930年代ドイツに移し、ジークフリートは「若い伯爵=夢想家」、ロットバルトは「近隣の貧しい地主でオディールの父」として再設定。クライマックスではロットバルトが白鳥を撃ち落とし、ジークフリートが短剣で自死するという徹底した悲劇です。
ワガノワは旧来の様式的パントマイムを無くし、動機や心理を「踊り」で語ることを徹底します。なにより、時代・様式を現代の観客に合わせて更新した功績は大きいです。その後のバージョンにおける設定の自由化を広げました。
ロマンチックな現実劇として再構成したバージョンは、ロプホフ版(1945年)、セルゲーエフ版(1950年)へと受け継がれていきました。
ブルメイステル版(モスクワ)
ソ連の振付家ウラジーミル・ブルメイステルによる1953年版は、物語の筋を明快にするためプロローグ(オデットがロットバルトの魔法で白鳥になる)とエピローグ(解放され人間に戻る)を導入したことが最大の特徴です。音楽もチャイコフスキーの全楽曲を積極的に用い、しばしば省かれる「王子のセレナード」や嵐の音楽なども活かしてドラマを作り出しています。
結末は王子がロットバルトに勝利し、オデットが解放されるハッピーエンドです。オディールが洗練された貴婦人寄りに描かれ、「なぜ王子がオデットと勘違いしてしまうのか」という点に説得力を与えます。1960年にはパリ・オペラ座が採用して西側でも広まりました。現在、日本の東京バレエ団もこのバージョンを採用しています。
英国ロイヤル・バレエ版(ロンドン)
英国ロイヤル・バレエ(ロンドン)は、1950年代に旧ソ連から亡命した振付家セルゲーエフが伝えたプティパ=イワノフ版を基に、西欧で初めて『白鳥の湖』全幕を上演した歴史を持ちます。以来、ニネット・ド・ヴァロワ、フレデリック・アシュトン、アンソニー・ダウエルなど名だたる振付家・芸術監督が手を加え、英国流の洗練された『白鳥の湖』を作り上げてきました。
ロイヤル・バレエ版の特徴の一つは、ドラマ(演劇性)を重視していることです。英国といえば「演劇」と言われるだけあり、ロイヤル版では物語性を丁寧に描く演出がなされています。たとえばプロローグ(序幕)にオデットが白鳥に変えられる場面を追加した演出版もあり、王子とオデットの心理描写に重きを置いています。また舞台美術や衣装にもロイヤルらしい重厚な伝統美が感じられ、宮殿のセットはヴィクトリア朝の宮廷を彷彿とさせる格式高さです。
結末については長年、悲劇的ロマンチックな結末が採用されてきました。ロイヤル・バレエの古典版(アシュトン&ダウエル版など)では、第4幕でオデットが絶望して湖に身を投げ、後を追って王子も入水自殺します。すると魔力の源であるオデットを失ったロットバルトは白鳥たちに取り囲まれ、最後に打ち倒されるか、あるいはショックで絶命します。そして亡くなった二人の魂が天上で結ばれる……という、悲しいながら愛の勝利を感じさせる幕切れです。
この「2人とも命を落とすが死後に結ばれる」という結末は、西側諸国で広く上演されてきた代表的バージョンで、ロイヤル版もそれを踏襲しています。ロットバルトも人間の姿(貴族風)と怪物の姿の2役に分けて登場し、特に怪物ロットバルトは着ぐるみ的な衣装で登場するなど演劇的な演出が特徴です。
なお2018年には若手振付家リアム・スカーレットによる新演出が発表され、こちらでは第4幕の結末にやや変化があります。スカーレット版では、オデットが自らの死によって呪いを破り王子を救うという解釈が盛り込まれました。具体的にはロットバルトとの戦いの中で王子が気絶している間にオデットが一人で命を落とし、人間の姿に戻った彼女の亡骸を抱きしめる王子の背後に白鳥の姿のオデットの魂が現れる、という演出です。この結末では王子は生き残り、オデットの魂が彼を見守るという切なくも救いのあるラストとなっています。解釈は異なるものの、いずれにせよロイヤル・バレエ版の『白鳥の湖』は愛と犠牲のドラマを重んじた感動的な舞台として定評があります。
パリ・オペラ座バレエ版(フランス)
フランスのパリ・オペラ座バレエ団では、1984年に伝説的ダンサーのルドルフ・ヌレエフが演出振付した『白鳥の湖』が有名です。ヌレエフ版はドイツ・シュツットガルトバレエのジョン・クランコ版(1963年)の影響を受けており、物語を単なるおとぎ話ではなく王子の内面的悲劇として掘り下げたのが特徴です。ヌレエフは王子ジークフリートを物語の中心に据え、彼の幻想と現実の交錯として『白鳥の湖』を描きました。
ロットバルトが王子の家庭教師として寄り添う存在として登場し、王子の心の闇を象徴する演出がなされています。エトワールが配役され、ロットバルトが王子と同等に踊る重要な役です。第3幕では王子・オデット・ロットバルトの三者が絡む振付があり、愛と誘惑の三角関係がより複雑に描かれます。
結末は非常にビターな悲劇です。王子がロットバルトとの戦いに敗れて命を落とし、オデットはロットバルトに連れ去られてしまいます。つまり、ロットバルトの勝利に終わるエンディングで、愛し合う二人は引き裂かれたままとなります。王子が最後に絶望の中で息絶える様子が強調され、従来の「死後に魂が結ばれる」という救済すらありません。この容赦ない幕切れには賛否ありますが、「音楽の高まりが悪の勝利を描いているように聞こえる」という解釈から、あえて徹底した悲劇にしたとも言われます(実際、第4幕の盛り上がる音楽に合わせてロットバルトが勝ち誇る演出がなされています)。心理劇としての『白鳥の湖』を追求した異色作で、王子役ダンサーの演技力と技量が試される作品です。
近年もパリ・オペラ座バレエで上演され続けており、ダンサーたちはこの重厚なバージョンを通じて芸術性を示しています。僕個人的には、古典の形式をとった『白鳥の湖』で一番好きなバージョンです。
なぜジークフリート王子はオデットとオディールを間違える?
ヌレエフ版では舞台美術そのものが王子の「心の部屋」として設計され、白鳥(理想)と黒鳥(誘惑)は王子の内面が生み出す影のように現れます。つまり、王子は「見たいものを見てしまう」という心のクセに自分で拍車をかけています。その上でロットバルトの陰謀に絡め取られていくのです。オデットとオディールの取り違えは単なるドジではなく、幻想に身を委ねた若さと欲望の代償として説得力があります。
同時に、「好きな人の顔を意外と覚えていないことがある」という感覚。小説家マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』で記憶と錯覚というテーマで記しています。パリ・オペラ座でバレエ化されています。『白鳥の湖』の「見間違い」と好対照です。
オーストラリア・バレエ団版(メルボルン)
オーストラリア・バレエ団の『白鳥の湖』と言えば、何と言っても振付家グレアム・マーフィーによる2002年初演の現代版が有名です。マーフィー版は原作のキャラクター設定を大きく変え、20世紀の現代的なラブストーリーに置き換えた大胆な再解釈です。物語は王子、王子の元恋人である男爵夫人、そして婚約者となる若いプリンセス(ダイアナ妃を思い出させる)の三角関係として再構築されており、愛憎劇となっています。
オデットに相当する人物は心優しい「プリンセス」、オディールに相当するのは妖艶な「バロンネス・フォン・ロットバルト」(ロットバルト男爵夫人)という設定です。通常のオデットとオディール二役を1人で演じることはなく、白鳥に変えられる魔法も比喩的な扱いとなっている点が他のバージョンと大きく異なります。
マーフィー版のストーリーは、放蕩者の王子が結婚相手のプリンセス(オデット)よりも元恋人の妖しい男爵夫人(黒鳥役)に心を奪われたことから悲劇が始まります。結婚式の日、心が乱れたプリンセスは精神を病んでしまい、その妄想の中で自分を白鳥に投影します。第2幕ではその妄想世界として「白鳥たちの湖」が描かれ、白鳥はプリンセスの心の象徴となっています。やがて正気を取り戻したプリンセスは、第3幕の舞踏会に美しく現れてロットバルト男爵夫人を見返しますが、最終的に心が再生することはなく、愛も自我も崩壊してしまう……という胸が痛むような結末です。
見どころは、なんと言ってもマーフィー独自の振付とドラマ性です。伝統的な振付を踏襲する部分もありますが、例えば黒鳥の32回転の音楽が全く別の場面で使われたり、4羽の白鳥の踊りにユニークなツイストが加えられたりと、音楽の使い方も斬新です。白鳥役のダンサー達はトウシューズを履きつつもよりモダンな身のこなしで、古典とは一味違う美学を見せます。第1幕で王子の浮気に絶望したプリンセス(オデット役)が狂乱する場面や、第3幕で華麗にドレスアップして舞踏会に登場する場面など、バレエでここまで人間の生々しい感情を描けるのかと驚くほど人間ドラマが濃密です。この革新的なマーフィー版は初演当初こそ物議を醸しましたがすぐに高い評価を受け、今やオーストラリア・バレエ団の代表作となりました。
ちなみに、この物語はイギリス王室の故ダイアナ妃の悲劇を重ね合わせているとも言われます。オーソドックスな白鳥とは大きく異なりますが、現代にも通じる愛と狂気の物語として強いメッセージ性を持ったバージョンです。
ダイアナ妃、チャールズ皇太子、カミラ夫人の三角関係を元にしたバレエ作品です。スキャンダルな内容でありながら人間ドラマが詰まった名作がグレアム・マーフィー版「白鳥の湖」です。
古典を含め、僕が一番好きな『白鳥の湖』です。ちなみに、オーストラリア・バレエ団は古典版もレパートリーにあります。
アメリカン・バレエ・シアター(ABT)版(ニューヨーク)
米国を代表するABT(アメリカン・バレエ・シアター)の『白鳥の湖』は、芸術監督を務めたケヴィン・マッケンジー振付によるプロダクション(1990年代初演)が知られています。ABT版は基本的にプティパ=イワノフ版に忠実なクラシカル路線ですが、いくつか独自の演出も見られます。その一つがロットバルトの扱いで、ABT版ではロットバルト役を二人のダンサーが演じ分けます。第1幕と第3幕では人間に変装したロットバルト(口髭を蓄えた貴族風の悪人)として登場し、第2幕と第4幕では怪物のロットバルトとして登場するという設定です。これにより、王子を誘惑する場面では美しい人間姿で陰謀を巡らし、湖では怪物として白鳥たちに恐怖を与えるという二面性が表現されています。
結末は、ABT版もロイヤル版同様に悲劇寄りのロマンチックエンドです。最終幕でオデットは王子の誓いが破られたことに絶望し湖に身を投げます。それを見た王子も後を追って入水し、二人とも命を落としてしまいます。ロットバルトはオデットを失ったショックで力を失い、悪は滅びます。亡くなった王子とオデットの魂が天に昇り永遠に結ばれる……という結末で、愛の犠牲によって呪いが破られる筋書きです。ABT版ではこの場面でオデットが王子にもロットバルトにも怒りを見せる激しい表現があり、死を選ぶ直前のオデットのドラマが強調されています。
総じてABT版は正統的な中にもアメリカらしいドラマチックさがあり、視覚効果(第4幕での光の演出など)にも凝った舞台です。
ニューヨーク・シティ・バレエ(NYCB)版
NYCBは、ジョージ・バランシンゆかりのモダンなカンパニーですが、古典形式の『白鳥の湖』も上演しています。主に上演されているのは1996年ロイヤル・デニッシュ・バレエで初演、1999年 NYCB初演のピーター・マーティンス振付版です。マーティンス版は、古典の名場面を残しつつNYCBらしいテンポの速い明快なスタイルを織り交ぜた意欲作となっています。例えば湖畔のシーンはバランシン振付の一幕物『白鳥の湖』(かつてNYCBで上演されていた短縮版)の振付を引用しており、伝統とモダンの折衷が図られています。また第3幕では、新たにロシア風の情熱的な民族舞踊を追加したり、3人の女性と1人の男性による高度なパ・ド・カトル(四人舞)を盛り込んだりと、他では見られないユニークな見せ場が設定されています。全体としてパントマイムや演技は削ぎ落とされ、純粋にダンスの躍動感を前面に出した構成になっているのがNYCB版の持ち味です。
結末について、マーティンス版は「曖昧な結末」を取っています。「ハッピーエンドでも悲劇エンドでもない」独特のラストシーンです。物語終盤、王子はロットバルトと戦って倒します(愛の力がロットバルトに打ち勝つ形)。しかし呪いが完全には解けず、オデットは白鳥の仲間たちのもとへ戻ってしまいます。人間の姿のまま一緒に生きることを選ばず、彼女は再び白鳥として群れと共に飛び去るのです。王子は一人生き残り、湖畔で悲しみに暮れる……という幕切れになっています。
この演出は「オデットが自らの意思で白鳥の世界へ帰ったのか、呪いが解けなかったのか定かでない」という解釈の余地を残し、オデットの自立を表しているとも言われます。観客によってさまざまに感じ取れる結末であり、「死ぬわけではないし、結ばれもしない」という中間的な余韻がNYCB版ならではです。この結末は、「フィナーレで流れる音楽が悲劇的なため、心中劇にはしない」というマーティンスの狙いとも言われ、クラシックファンの間でも議論を呼びました。
なおNYCBはバランシンが1951年に振付けた一幕版『白鳥の湖』も伝統的にレパートリーに持っています。バランシン版は第2幕を中心に抜粋した短い作品で、解釈よりも踊りそのものを楽しむ内容です。
ハンブルク・バレエ版(ドイツ)
ハンブルク・バレエ団では、芸術監督ジョン・ノイマイヤーが1976年に発表した異色作『幻想~「白鳥の湖」のように』が有名です。19世紀バイエルン国王のルートヴィヒ2世(いわゆる「狂王ルートヴィヒ」)の生涯と『白鳥の湖』の物語を重ね合わせた大胆な構成となっています。ノイマイヤーは、ルートヴィヒ2世が『白鳥の湖』初演を絶賛し、そして保護した歴史に着想を得ています。
ルートヴィヒ2世自身をジークフリート王子になぞらえ、現実と幻想を交錯させる独自のドラマを創作しました。物語中、主人公の王子は実在のルートヴィヒ2世であり、彼の精神世界に『白鳥の湖』の登場人物たちが幻影として現れる構造になっています。王子の周囲の人々(母后や婚約者)は『白鳥の湖』のキャラクター(王妃やオディール)と二重写しになり、王子の心の葛藤や隠された願望を象徴しています。例えば、王子は現実において自らの結婚に悩み孤独を深めていきますが、幻想の中では白鳥オデットとの純愛に救いを求めます。またノイマイヤー版では、王子の同性の親友に対する感情も暗示され、白鳥の物語と平行してルートヴィヒ2世の内なる愛と苦悩が描かれます。
クライマックスでは、現実の王(ルートヴィヒ2世)は悲劇的最期を迎え、幻想の中で白鳥の王女オデットも消え去ります。王子(=ルートヴィヒ2世)は愛を得られないまま狂気の中で命を落とすという、非常に重厚で悲劇的な結末です。ノイマイヤー版は、解釈が観客に委ねられているとも言われます。バレエと言うより一編の舞台劇・心理劇に近く、プティパ=イワノフ版のような華麗な群舞は抑えめで、代わりに主人公の内面を象徴する場面が多用されています。
音楽は基本的にチャイコフスキーの楽曲を用いながら、一部順番を入れ替えたり補足の曲を加えたりしてドラマを再構成しています。
この作品は賛否両論ある実験的作品ですが、ノイマイヤーの代表作として現代バレエの名作と評価する声もあります。何より「白鳥の湖」というおとぎ話を現実の歴史と人間に結び付けた大胆さは唯一無二で、深い余韻を残します。ハンブルク・バレエ団は定期的にこの作品を上演しており、ノイマイヤー独特の世界観を伝えています。
シュツットガルト・バレエ版(ドイツ)
シュツットガルト・バレエ団では、振付家ジョン・クランコが1963年に手掛けた『白鳥の湖』が知られていました。クランコ版は当時として斬新な解釈で、その後の西側バレエ団の悲劇版『白鳥の湖』に大きな影響を与えたと言われます。クランコ版最大の特徴は、救いのない悲劇的な結末です。第4幕、王子はロットバルトとのもみ合いの末、湖に落とされ溺死してしまいます。オデットはそれを目の当たりにして悲嘆に暮れますが、ロットバルトの魔力によってオデット自身も白鳥の姿に戻されてしまい、悲しみの中で湖を泳ぎ去ります。
つまり王子は死に、オデットは白鳥のまま生き残って人間には戻れない、という非常に残酷な幕切れです。ロットバルトは何の罰も受けず勝ち逃げ同然で物語が終わるため、観客に強烈な虚無感を残します。また、通常は美しく表現される白鳥ですが、メイク・照明によりどちらかというと妖怪に近い不気味さを備えた白鳥となっています。
クランコ版は現在では上演されていませんが、「愛が報われない悲劇としての『白鳥の湖』」の路線はヌレエフ版などに継承されました。なおシュツットガルト・バレエ団では近年、他の振付家による新たなプロダクションも模索されています(例えば同団出身の振付家パトリック・ドゥ・バナが再解釈版を制作するなど)。しかしクランコ版の徹底した悲劇性は伝説として語り継がれ、オリジナルのハッピーエンド版とは対極にある解釈としてバレエ史に刻まれています。
マシュー・ボーン版(ロンドン)
1995年サドラーズ・ウェルズに初演されました。最大の革新は、女性が踊る白鳥たちを男性ダンサーの群舞に置き換え、物語を王子の心理劇として再構築した点です。王子と「スワン/ストレンジャー」の関係、女王や官僚(プライベート・セクレタリー)との確執を軸に、クラブや宮廷舞踏会など現代的場面と古典音楽が交錯します。
ラストは収容施設での悪夢のクライマックス。群れに引き裂かれたスワンが消え、王子は息絶え、最後に二人の象徴的な再会という悲劇で幕を閉じます。
ウェストエンド(ロンドンの劇場街)、ブロードウェイにおいて最長ロングランのバレエとなり、トニー賞3部門(振付・演出・衣装)とオリヴィエ賞を含む30以上の国際賞を受賞しています。2018年にはデザインを刷新したリバイバル版が制作され、誕生30周年の現在も英紙各紙が「ダンスを変えた作品」として評価を更新しています。
日本にも頻繁に来日し、日本人として首藤康之さんが主役を踊っています。
以上、主要なバレエ団によるさまざまな『白鳥の湖』のバージョンをご紹介しました。
同じ作品でありながら、結末の解釈ひとつでこれほど物語の印象が変わるというのは驚きです。もともと1877年の初演版は悲劇的な結末でしたが、1920年代以降のソ連で社会主義の理想になぞらえて結末がハッピーエンドに改変される歴史的経緯もありました。
チャイコフスキーの音楽はパブリックドメインとなっているため自由な創作を許します。そのため、その後も各国で振付家たちが独自の美学や思想をこの名作に投影してきました。ぜひ機会があれば、違うバージョンの『白鳥の湖』を見比べて、それぞれの演出の意図や特徴を味わってみてください。
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『白鳥の湖』の王道は、初演を行ったマリインスキー・バレエ団です。今は引退してしまいましたが、20年ほど『白鳥の湖』を踊らせるならこの人というダンサーがいました。それがウリヤーナ・ロパートキナです。
2,000円ほど。円熟期のウリヤーナ・ロパートキナとダニーラ・コルスンツェフによる名演です。僕も実際に見たことがありますが、舞台全体の空気がピリッとしていて緊張感のある『白鳥の湖』です。日本でもかなりの人気を誇っていました。
さまざまなバージョンのなかで1895年のプティパ=イワノフ版の振付にもっとも近いのは、1987年につくられたアンソニー・ダウエル版『白鳥の湖』です。ただし、現在はどのバレエ団でも踊られていません。ですが、映像が残っています。
3,000円ほど。
ケヴィン・マッケンジー版は廃版となっています。ふだん主役の王子を踊る男性ダンサーが悪役を演じるのも魅力的です。
中古版を入手可能です。
マシュー・ボーン版、2010年の公演です。
4,500円ほど。
以上、バレエ『白鳥の湖』の紹介でした。ありがとうございました。
バレエ作品に関してはこちらにまとめています。ぜひご覧ください。







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