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シルヴィ・ギエムとは?
経歴は?
どこが伝説?

各時代、変革をもたらす伝説的なダンサーが登場しています。ニジンスキー、プリセツカヤ、フォンテイン、ヌレエフ、バリシニコフなどなどなどなど。

今のバレエ界に一番影響を残しているのがシルヴィ・ギエムだと思います。

世界中から人気があったシルヴィ・ギエム。日本からの人気も高く、日本びいきとしても知られました。東日本大震災のあと、原子力発電所の事故により来日を中止するダンサーが多い中、いち早く公演をおこなったことでも知られています。

記事を書いているのは…

元劇団四季、テーマパークダンサー。舞台、特にバレエを観に行くのが大好きで、年間100公演観に行った記録があります。

kazu

今回は伝説のダンサー「シルヴィ・ギエム」の紹介です。

※3分ほどで読み終わる記事です。

鋼の女

シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)が登場する前と後ではダンサーの体型がガラッと変わります。ギエム以前は少しコロっとしたダンサーもいました。しかし、ギエムの登場でバレエダンサーの基準というものが変わってしまいました。

シルヴィ・ギエムは手足が長く、9頭身。180°以上に上げる足、完璧なアンデオール、強靭な肉体を完全にコントロールしています。ギエムの体型・テクニックがバレエダンサーの基準・目標となりました。

そして、女性バレエダンサーの解釈も大きく変えました。守られるべきヒロインというより、自立した女性像という新しい価値観をバレエ界に広げていきました。シルヴィ・ギエムは男性のサポートをそこまで必要としないため、男性と2人で踊るパ・ド・ドゥでも自立している印象が大きいです。

少し意訳しながら翻訳します。自分が幸せであることを第一としてたシルヴィ・ギエム。納得しない限り踊ることはありませんでした。ギエムの行動によりバレエダンサーの主体性が認められるようになりました。ギエムのステージでの存在感の強さ、バレエダンサーとしての素晴らしさがあったからこそかもしれないですが、自分の可能性は自分でつかむべきだと力強く語ります。そうでなければ、観客にバレてしまう。緊張していればそれが観客に伝わり、作品を愛していればそれも観客に伝わる。だからこそ、ギエム自身にとってさらに挑戦していきたいと考えていたようです。「自分の行動を愛し、自身を持って」と最後メッセージが載っています。

経歴

1965年:2月25日生まれ
1976年:体操のオリンピック国内予選を突破。パリ・オペラ座バレエ学校にスカウトされ入学
1981年:パリ・オペラ座バレエ団に入団
1983年:ヴァルナ国際バレエコンクールで金賞・特別賞・優秀賞の三冠受賞
1984年:カルポー賞受賞。プルミエール・ダンスーズに昇進
:12月29日、初主演の「白鳥の湖」終演直後に、芸術監督ルドルフ・ヌレエフよりエトワールに任命(当時19歳で最年少記録)
1988年:パリ・オペラ座バレエ団を電撃退団。
:英国ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルとして活動開始。
その後フリーに。

クラシックバレエだけでなく積極的にコンテンポラリー・ダンスに取り組む。

シルヴィ・ギエムは多くの振付家の想像の源となり、多くの作品が生まれます。ウィリアム・フォーサイス「イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド」、モーリス・ベジャール「アレポ」、ジョン・ノイマイヤー「マニフィカト」などなど。

2015年:引退を表明。世界各地のファイナルツアーの締めくくりとして12月に日本でさよなら公演を行う。12月31日ラストステージとして「東急ジルベスターコンサート 2015-2016」に特別出演。モーリス・ベジャールの「ボレロ」を踊った。

ヌレエフの子どもたち

ソ連から亡命した伝説的ダンサーであるルドルフ・ヌレエフ。ヌレエフは1983年~89年のあいだ、パリ・オペラ座バレエ団の芸術監督をつとめます。

この時期にパリ・オペラ座バレエ団のダンサーたちが開花しました。このダンサーたちを「ヌレエフ世代」といったり「ヌレエフの子どもたち」と呼んだりします。その筆頭がシルヴィ・ギエムでした。

ヌレエフ世代の代表

シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)
イザベル・ゲラン(Isabelle Guérin)
エリザベート・ブラテル(Elisabeth Platel)
アニェス・ルテステュ(Agnes Letstu)
パトリック・デュポン(Patrick Dupond)
シャルル・ジュド(Charles Jude)
ローラン・イレール (Laurent Hilaire)
マニュエル・ルグリ(Manuel Legris)
ニコラ・ル=リッシュ(Nicolas Le Riche)
ジョゼ・マルティネス(Jose Martinez)

めがね

ちょうど僕がバレエをよく観ていた2000年代はヌレエフ世代が円熟期に入っていて、パリ・オペラ座バレエ団には素晴らしいダンサーがたくさんいました。

フランスの国家的損失

1988年、シルヴィ・ギエムはパリ・オペラ座バレエ団を電撃退団します。ギエムは絶対的エトワールで、どの作品でも主役を踊り忙しい日々を過ごしていました。というより忙しすぎる日々を過ごしていました。

世界中からオファーが来るものの、当時のパリ・オペラ座バレエ団はギエムを囲い込んでいました。ギエムがパリ・オペラ座バレエ団以外では自由に踊れないような環境をつくったことで、逆にギエムが出ていく結果となってしまいます。フランスでは大きな問題となり、ミッテラン大統領が「国家的損失」と言ったとされています。

ギエムはパリ・オペラ座バレエ団から退団した2週間後、英国ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルとなりました。

マドモワゼル・ノン

英国ロイヤル・バレエ団でも経営陣と衝突することが多かったシルヴィ・ギエム。大振付家であるケネス・マクミラン相手でも怯まなかったといいます。演技・衣装・演目のことでも主張することが多く「マドモワゼル・ノン」というあだ名がつけられていたそう。

ちなみに大のマスコミ嫌いとしても有名でした。

ギエムのパートナーたち

シルヴィ・ギエムは身長が172cmあるので、男性のパートナーも長身のことが多かったです。

パリ・オペラ座バレエ団のローラン・イレール、パトリック・デュポン、マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル=リッシュ。英国ロイヤル・バレエ団ではジョナサン・コープを相手にしていました。

2000年代以降、日本で踊るときシルヴィ・ギエムのパートナーはほとんどニコラ・ル=リッシュでした。ニコラ・ル=リッシュは個性的な演技力・音楽性に評価があるダンサーで、ギエムとのパートナーシップも抜群でした。

日本には心を開いていた

シルヴィ・ギエムは日本文化に共感を示していました。

日本文化について「洗練されていて、細部へのこだわりがあり、簡素、そして相手を思いやり尊重する精神がある」と評価しています。

日本とのつながりも深く、2011年の東日本大震災の後、発起人となりパリで復興支援チャリティ・ガラ「HOPE JAPAN」を開きます。また、来日し「HOPE JAPAN TOUR」をおこないました。

今は引退してしまいましたが、映像からもシルヴィ・ギエムの精神は伝わります。

2,000円ほど。ギエムは永遠です。

kazu

今回は「シルヴィ・ギエム」のご紹介でした。 ぜひぜひチェックしてみてください。
ありがとうございました。