シルヴィ・ギエムとは?
経歴は?
伝説の理由は?
各時代、変革をもたらす伝説的なダンサーが登場しています。
ニジンスキー( 1900年代)、プリセツカヤ( 1940年代)、フォンテイン( 1940年代)、ヌレエフ( 1960年代)、バリシニコフ( 1970年代)などなどなどなど。
2000年代以降、最大の影響力を持つのが シルヴィ・ギエム( 1990年代)だと思います。
日本での人気がとても高いダンサーでした。
また、日本びいきでもありました。
東日本大震災のあと、原子力発電所の事故により多くのダンサーが来日を中止しました。
そのような中、いち早くチャリティー公演を行ったことでも知られています。
元劇団四季、テーマパークダンサー。舞台、特にバレエを観に行くのが大好きで、年間100公演観に行った記録があります。
今回は、伝説のダンサー「シルヴィ・ギエム」についてです。
※ 3分ほどで読み終わります。
ギエム以前、ギエム以後
シルヴィ・ギエム( Sylvie Guillem )が登場する前と後ではダンサーの体型がガラッと変わります。
ギエム以前は少しコロっとしたダンサーもいました。しかし、ギエムの登場でバレエダンサーの基準そのものが変わってしまいました。
1984年(19歳ごろ)の映像です。シルヴィ・ギエムは手足が長く、9頭身。180°以上に上がる足、完璧なアンデオール(股関節を開くテクニック)、強靭な肉体を完全にコントロールしています。
ギエムの体型・テクニックがバレエダンサーの基準・目標となりました。
そして、女性バレエダンサーの解釈も大きく変えました。
シルヴィ・ギエムは男性のサポートをそこまで必要としないため、男性と 2人で踊るパ・ド・ドゥでも自立している印象が強いです。
守られるべき受け身のヒロインではなく、自立した女性像を打ち出す
この新しい価値観をバレエ界に広げていきました。
僕自身、何度も何度もギエムを観ました。ギエムが舞台に登場すると、空気が変わります。舞台に登場するだけで、公演のクオリティーが上がった感覚を得ていました。なにより、作り出す身体のラインがあまりに美しすぎて、ギエムが登場すると自然とギエムを目で追ってしまいます。
自分に厳しいダンサーとして有名だったギエム。
ギエム以前とギエム以後ではダンサーが違う、という言われ方をするくらい多くのダンサーに大きな影響を与えました。
引退後のギエムのインタビュー映像
1分ほどの映像で、ダニール・シムキン(ABT所属、世界を代表するバレエダンサー)がインタビューしています。
自分が幸せであることを第一としてたシルヴィ・ギエム。納得しない限り踊ることはありませんでした。
ギエムの行動によりバレエダンサーの主体性が認められるようになりました。才能あるからこその言葉だと思いますが「自分の可能性は自分でつかむべきだ」と力強く語ります。そうでなければ、観客にバレてしまう。緊張していればそれが観客に伝わり、作品を愛していればそれも観客に伝わる。
だからこそギエムは新たなことに挑戦していきたいと考えていたようです。
最後のメッセージは、「自分の行動を愛し、自信を持って」
強靭な足
ギエムといえば強靭な足、とくに厚くしなっている甲はスゴいの一言……。
足型の銅像がつくられるほどです。
invaluable.comより
足裏の筋肉がかなり鍛えられているのがわかります。
下の映像では足を180°デヴロッペしたあとにルルベをするというとんでもない技を軽々とこなしています。これも足裏の筋肉あってこそ……。
スゴすぎます。
本番の映像だけでなく、レッスン動画、ドキュメンタリー動画だけでも見ごたえがあります。
ギエムの動画を見ていると常識を疑いたくなります。
例えばバレエのレッスンにおいて、シューズの紐は見えないように靴の中に隠します。マナーと教えられることが多いです。
ですがギエムはトウシューズの紐をバサバサにしていたり、レッスン着を適当に着ていたりします。
その姿が絵になり、美しくカッコいい。
経歴
ギエムはもともと新体操選手としてオリンピックを目指していました。
1977年(12歳)、新体操のオリンピック予選を通過した際、パリ・オペラ座バレエ学校で研修がありました。
ここで、当時の校長だったクロード・ベッシーにスカウトされ、バレエのキャリアがスタートします。
1965年:2月25日生まれ
1977年:体操のオリンピック国内予選を突破。パリ・オペラ座バレエ学校にスカウトされ入学
1981年:パリ・オペラ座バレエ団に入団
1983年:ヴァルナ国際バレエコンクールで金賞・特別賞・優秀賞の三冠を独占受賞
1984年12月24日:カルボー賞(パリ・オペラ座バレエ団の新人賞)受賞。プルミエール・ダンスーズに昇進
:12月29日、初主演の「白鳥の湖」終演直後に、芸術監督ルドルフ・ヌレエフよりエトワールに任命(当時19歳で最年少記録)
1988年:パリ・オペラ座バレエ団を電撃退団。
:英国ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルとして活動開始。
以降フリーとして活動
パリ・オペラ座バレエ団では、当時最年少でパリ・オペラ座バレエ団のエトワールに昇進します。とにかく記録づくめ、驚異的なスピードでの昇進でした。
ギエムは、クラシックバレエだけでなく積極的にコンテンポラリー・ダンスに取り組んでいました。
代表作の『 TWO 』(ラッセル・マリファント振付)です。
初めて見たときに衝撃が走りました。映像だとわかりにくいですが、実際には照明との掛け合いがある作品です。
多くの振付家の創造の源となり、多くの作品が生まれます。ウィリアム・フォーサイス『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』、モーリス・ベジャール『アレポ』、ジョン・ノイマイヤー『マニフィカト』などなど。
2015年に引退を表明します。
世界各地のファイナルツアーの締めくくりとして 12月に日本でさよなら公演を行います。12月31日 ラストステージとして『 東急ジルベスターコンサート 2015 – 2016 』に特別出演し、モーリス・ベジャールの『ボレロ』を踊りました。
ヌレエフの子どもたち
ソ連から亡命した伝説的ダンサーであるルドルフ・ヌレエフ。ヌレエフは 1983年 ~ 1989年 のあいだ、パリ・オペラ座バレエ団の芸術監督をつとめます。
ヌレエフをテーマにした映画です。
5,000円ほど。バレエ界の異端児であるセルゲイ・ポルーニンが演じます。
厳しい指導、そしてダンサーへの要求が高いヌレエフ。
この時期パリ・オペラ座バレエ団のダンサーたちが開花しました。この世代のダンサーたちは「ヌレエフ世代」「ヌレエフの子どもたち」と呼ばれます。その筆頭がシルヴィ・ギエムでした。
シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)
イザベル・ゲラン(Isabelle Guérin)
エリザベート・ブラテル(Elisabeth Platel)
アニェス・ルテステュ(Agnes Letstu)
パトリック・デュポン(Patrick Dupond)
シャルル・ジュド(Charles Jude)
ローラン・イレール (Laurent Hilaire)
マニュエル・ルグリ(Manuel Legris)
ニコラ・ル=リッシュ(Nicolas Le Riche)
ジョゼ・マルティネス(Jose Martinez)
ちょうど僕がバレエをよく観ていた2000年代はヌレエフ世代が円熟期に入っていて、パリ・オペラ座バレエ団には素晴らしいダンサーがたくさんいました。
現在は引退したヌレエフ世代が芸術監督を務めていたり、後進の育成に入り、ヌレエフのDNAは受け継がれています。
2024年現在、パリ・オペラ座バレエ団はジョゼ・マルティネスが芸術監督です。
フランスの国家的損失
1988年、シルヴィ・ギエムはパリ・オペラ座バレエ団を電撃退団します。ギエムは絶対的エトワールで、どの作品でも主役を踊り忙しい日々を過ごしていました。というより忙しすぎる日々を過ごしていました。
世界中からオファーが来るものの、当時のパリ・オペラ座バレエ団はギエムを囲い込んでいました。ギエムがパリ・オペラ座バレエ団以外では自由に踊れないような環境をつくったことで、逆にギエムが出ていく結果となってしまいます。
フランスでは大きな問題となり、当時のミッテラン大統領が「国家的損失」と言ったとされています。
ギエムはパリ・オペラ座バレエ団から退団した 2週間後、英国ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルとなりました。
マドモワゼル・ノン
英国ロイヤル・バレエ団でも経営陣と衝突することが多かったシルヴィ・ギエム。大振付家であるケネス・マクミラン相手でも怯まなかったといいます。
演技・衣装・演目のことでも主張することが多く、NO のフランス語である ノン が口癖となっていたため「マドモワゼル・ノン(嫌ばかり言う女性)」というあだ名がつけられていたそうです。
ちなみに大のマスコミ嫌いとしても有名でした。
ギエムのパートナーたち
シルヴィ・ギエムは身長が 172cm あるので、男性のパートナーも長身のことが多かったです。
パリ・オペラ座バレエ団のローラン・イレール、パトリック・デュポン、マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル=リッシュ。英国ロイヤル・バレエ団ではジョナサン・コープを相手にしていました。
2000年代以降、日本で踊るときシルヴィ・ギエムのパートナーはほとんどニコラ・ル=リッシュでした。ニコラ・ル=リッシュは個性的な演技力・ダイナミックな踊り・音楽性に評価があるダンサーで、ギエムとのパートナーシップも抜群でした。
何回も観ましたが、ギエムは絶対的王者感がありました。
ニコラ・ル・リッシュとの『ドン・キホーテ』です。
日本には心を開いていた
シルヴィ・ギエムは日本文化に共感を示していました。
日本文化について「洗練されていて、細部へのこだわりがあり、簡潔、そして相手を思いやり尊重する精神がある」と評価しています。
日本とのつながりも深く、2011年の東日本大震災の後、発起人となりパリで復興支援チャリティ・ガラ『HOPE JAPAN』を開きます。また、来日し『HOPE JAPAN TOUR』をおこないました。
今は引退してしまいましたが、映像からでもシルヴィ・ギエムの精神は伝わります。
ダンサーを目指す人だけでなく、バレエに興味を持った人は必ず観ておくべきバレエダンサーです。映像だとしてもギエムを見ると価値観がガラッと変わると思います。
ギエムは永遠です。
最後に『ラ・バヤデール』の舞台袖からの映像です。ニキヤを演じています。
今回は「シルヴィ・ギエム」についてでした。
ありがとうございました。
バレエ作品に関してはこちらにまとめています。ぜひご覧ください。
舞台鑑賞好きの僕が劇場に行くときに知っておくとちょっと得する話をのせています。バレエを中心に紹介しています。