英国ロイヤル・バレエ団で常任振付家として活躍し、「天才」と称されたリアム・スカーレット(Liam Scarlett)。現在も上演され続けている『白鳥の湖』の改訂版を手掛けるなど、その才能は世界中で高く評価されていました。
しかし2019年、セクハラ疑惑(Sexual Misconduct)が浮上。ロイヤル・バレエ団からの解雇、そして35歳という若さでの突然の死。この一連の出来事はバレエ界に大きな衝撃と議論を巻き起こしました。
この記事では、彼が残した功績と、疑惑の時系列、そして調査結果という事実に基づき、この複雑な問題を整理します。
※ 本記事は繊細な内容を含みます。閲覧にはご注意ください。
We are deeply saddened to hear the news of Liam Scarlett’s death
Our thoughts are with his friends and family at this very sad time. pic.twitter.com/0VTdpDH0pM
— Royal Opera House (@RoyalOperaHouse) April 17, 2021
【翻訳】 「リアム・スカーレットの訃報に接し、深い悲しみに包まれています。この非常に辛く困難な時にあたり、彼の友人やご家族の皆様に心より想いを寄せています。」
【解説:関係断絶後の弔意】これは、彼が亡くなった翌日にロイヤル・バレエ団とオペラハウスが共同で発表した声明です。調査による契約終了(事実上の解雇)という形で一度は関係が断たれましたが、かつて「ファミリー」として共に過ごした仲間を失った悲しみは、組織の枠を超えて深いものであったことが伝わります。使用された写真は、振付家としての厳しい顔つきではなく、穏やかな表情のものが選ばれました。
事件のタイムライン(時系列)
まずは、何が起きたのかを時系列で確認します。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 2019年8月 | セクハラ疑惑が浮上。ロイヤル・バレエ団がリアム・スカーレットを停職処分とし、独立調査を開始。 |
| 2020年1月 | 疑惑がメディアで大きく報じられ、世界的なニュースとなる。 |
| 2020年3月 | ロイヤル・バレエ団調査終了。「生徒に関する証拠はなし」とされたが、契約は終了(事実上の解雇)。 |
| 2021年4月16日 | リアム・スカーレット急去(享年35歳)。後に検視法廷で自殺と認定。 |
1:何が告発されたのか(疑惑の内容)
未成年生徒への不適切行為の疑い 報道によると、ロイヤル・バレエ・スクールの元生徒らから以下のような証言が寄せられました。
・SNSを通じた性的なメッセージのやり取り
・裸の写真の送信を求められた
・不適切な身体的接触(リハーサル外での接触など)
・更衣室への立ち入り
これらは「Sexual Misconduct(性的違法行為/不品行)」として報じられました。
用語解説:Sexual Misconduct(セクシャル・ミスコンダクト:性的不品行)とは
直訳すると「性的な不品行(ふひんこう)」です。日本の「セクハラ」よりも範囲が広く、同意のない接触から、立場を利用した不適切な関係までを含む「包括的な概念」です。
必ずしも「刑事罰(逮捕されるような犯罪)」だけを指すわけではありません。この言葉が使われる場合、特に「教師と生徒」「上司と部下」といった権力勾配(パワーバランス)を利用した、職業倫理に反する性的な振る舞いを問題視するニュアンスが強く含まれます。
本件においては、「法的に裁かれる犯罪(暴行など)」の証拠はなかったものの、教育者・指導者として許されない「倫理規定違反(Misconduct)」があったのではないか、という点が焦点となりました。
「断れば役がもらえない」という圧力
リアム・スカーレットに対しては、指導者としての立場を利用したパワハラ疑惑もありました。
「ダンサーは『はい』と言う訓練をしなければならない」
「振付家の指示には即答できなければ競争に負ける」
このような言動で心理的に追い込み、不適切な要求を拒めない空気を作っていたのではないかと指摘されています。
2:調査の結果はどうだったのか
ここがこの事件の最も複雑で、議論を呼んでいる点です。
公式調査では「証拠なし」
ロイヤル・バレエ団が依頼したのは独立した調査機関です。7ヶ月に及ぶ調査の結果、「ロイヤル・バレエ・スクールの生徒に関わる告発については、追求すべき事項はない」という結論が出されました。また、警察による捜査や刑事告訴も行われていません。
それでも「解雇」された理由
調査で特定の証拠が出なかったにもかかわらず、ロイヤル・バレエ団は彼との契約を打ち切りました。
これについては、「法的証拠はなくとも、バレエ団の行動規範に反する振る舞いがあった」と判断されたのか、あるいは「スキャンダルによるイメージダウンを避けた(キャンセルカルチャーの影響)」のか、見解が分かれています。
結果として、彼は名声を失い、世界中のバレエ団から作品の上演を取りやめられる事態となりました。
3:悲劇的な結末
2021年4月、リアム・スカーレットは35歳でその生涯を閉じました。後の検視法廷(Inquest)において、死因は自殺であると結論付けられました。
検視官は、「告発が事実ではないと訴えていた彼にとって、名前が公然と汚されたことへの屈辱感が、自死の大きな要因となったことは明らかである」との見解を示しています。
真相が法廷で争われることもないまま、才能ある若者が命を絶つという最悪の結末となってしまいました。
4:振付家としての功績
疑惑の一方で、彼がバレエ界に残した芸術的功績が消えるわけではありません。1986年生まれの彼は、弱冠26歳で英国ロイヤル・バレエ団の常任振付家に抜擢されました。
・『白鳥の湖』新制作(2018年):約30年ぶりとなる改訂を行い、現在もバレエ団の主要レパートリーとして上演されています。
・『フランケンシュタイン』:グロテスクさと美しさが同居する独自の劇的表現で話題を呼びました。
・『アスフォデルの花畑』:純粋なダンスの美しさを追求した傑作として知られます。
亡き天才の魂を受け継ぐ:『白鳥の湖』
2024年に公開されたメイキング映像です。リアム・スカーレット亡き後、彼が遺した緻密な振付と「人間味のあるドラマ」を、残されたスタッフたちがどのように守り、次世代のダンサーへ伝えているかが語られています。
▼ 動画の要約と翻訳
ギャリー・エイヴィス(プリンシパル・キャラクター・アーティスト)(0:41〜):
「リアムのプロダクション(演出)には、何かとても特別なものがあります。多くの人々が、今この作品を彼への『トリビュート(追悼・賛辞)』のように感じながら演じていると思います。」
ラウラ・モレーラ(プリンシパル・コーチ / 元プリンシパル)(3:04〜):
「リアム・スカーレットが亡くなった時、彼は自分の作品を芸術的に守る役目を、4人の人物に託していました(指名していました)。私はそのうちの一人です。私の役目は、リアムの振付スタイルにあった『エッセンス(本質)』や知識のすべてを、確実にダンサーたちへ伝えていくことです。」
【映像の概要:リアム・スカーレット独自の解釈】
動画内では、リアム・スカーレットが『白鳥の湖』に持ち込んだ独自の視点が語られています。
・ロットバルトの正体: 単なる悪魔ではなく、王権や権力への嫉妬に狂った「吸血鬼(Vampire)」のように時を超えて生き続ける存在として描かれています。彼は王家を内部から崩壊させようと画策します。
・二人の共通点: ジークフリート王子とオデットを、立場は違えど「共に囚われた魂(Trapped Souls)」として描いています。だからこそ二人は出会った瞬間に深く共鳴し合う、という人間ドラマに焦点が当てられています。
純粋な美の追求:『アスフォデルの花畑』
リアム・スカーレットの振付家としての才能が遺憾なく発揮された傑作です。英国ロイヤル・バレエ団の伝統であるケネス・マクミランやフレデリック・アシュトンの系譜を踏襲しつつ、現代的な感性でクラシックとモダンを絶妙なバランスで融合させています。
音楽と一体化した情感豊かな動きは、観る者の心に強い印象を残します。(踊り:メリッサ・ハミルトン、ダヴィド・トシェンミエフ)
伝統を継承しつつ現代的な感覚を取り入れた彼の作品は、現在でも世界中のダンサーや観客に愛されています。
バレエ界が直面した課題
リアム・スカーレットの事件は、二つの重い課題を浮き彫りにしました。
・閉鎖的な指導環境の改善:密室での指導や、振付家の絶対的な権力に対するチェック機能の必要性
・疑惑への対応と人権:SNSや報道で疑惑が先行した場合、事実確認の前に社会的制裁(キャンセル)が下され、個人の尊厳や命が危ぶまれるリスク
彼の死を悼むとともに、二度とこのような悲劇が起きないよう、バレエ界全体が健全な環境づくりを模索し続けています。
【心の悩み相談窓口】
本記事は事実に基づいた内容を掲載していますが、精神的な苦痛を感じた場合や、悩みがある場合は、一人で抱え込まずに以下の専門窓口へご相談ください。
こころの健康相談統一ダイヤル 電話番号:0570-064-556
いのちの電話 電話番号:0120-783-556(フリーダイヤル・16:00~21:00)
厚生労働省:まもろうよ こころ(相談窓口一覧)
影響とその後の展開
没後も受け継がれる作品としてリアム・スカーレット版『白鳥の湖』は、その圧倒的な人気から2022年以降も再演が重ねられています。この作品はロイヤル・バレエ団にとって、単なる芸術作品という枠を超え、カンパニーの財政を支える屋台骨(不動のレパートリー)となっています。
アンソニー・ダウエル版から31年ぶりに英国ロイヤルバレエ団が「白鳥の湖」を改定しました。ゴシック調の雰囲気で、重厚なストーリーです。白鳥全員がチュチュになりました。
数々の名演が生まれ続けています。
また、全幕バレエ『フランケンシュタイン』では、美しさの中に「グロテスクな生々しさ」や「孤独」を鮮烈に描く、彼特有の作家性が光ります。古典の改訂だけでなく、こうした独自の空気感を持つ物語作品をゼロから創り上げたことも、彼が天才と呼ばれた所以です。
現在も販売が続いています。
編集後記:罪と芸術の狭間で
正直に告白すると、私はかつてリアム・スカーレットに対して、否定的な感情を抱いていました。
彼が解雇された後、まだ自死という悲劇が起きる前のことです。NHKが何の説明もテロップもなく、彼の『白鳥の湖』を放映したことがありました。当時、私はテレビの前で「被害者がいるかもしれないのに、なぜ何事もなかったかのように流すのか」と、憤りを覚えたことを記憶しています。
しかし、彼の死を経て、そして今回改めて事実関係や彼の遺した作品と向き合う中で、その考えは少しずつ変化しました。
許されない過ち(あるいは倫理的な逸脱)があったとしても、彼が生み出した作品そのものの美しさや、それを守ろうとするダンサーたちの情熱まで否定する必要はないのではないか、と。
過剰な正義感で「排除」するだけでは、失われるものが大きすぎる──。「作品と人格をどう切り分けるか」、そして「疑惑に対して社会がどう向き合うべきか」もう少し考える時間が必要です。







