ジョージ・バランシンとは?
バレエの歴史を変えた?
どんな特徴がある?
20世紀のバレエ振付家で1番評価されているのがジョージ・バランシンです。
ロシア出身のダンサーであるバランシン。
ヨーロッパで亡命し、その後ニューヨークで自分のバレエ団を設立し、大成功させました。
元劇団四季、テーマパークダンサー。舞台、特にバレエを観に行くのが大好きで、年間100公演観に行った記録があります
今回は「ジョージ・バランシン」の紹介です。
※3分ほどで読み終わります。
NYCBホームページより
ジョージ・バランシン(George Balanchine)
バレエの振付家であるバランシンはたくさん功績を残しています。
中でも2つの功績が挙げられます。
・アメリカンバレエの確立
・抽象バレエの確立
アメリカンバレエ
バランシンはロシア出身ですが、アメリカでバレエを芸術の地位まで押し上げました。
しかも広めただけでなく、自身のスタイルを発展させ体系化しました。これがアメリカンバレエのスタイルとなっています。
その証拠となるのが、ディズニー作品の「ファンタジア」です。
4,000円ほど。
1940年に公開された「ファンタジア」は、クラシックの名曲8曲とアニメーションを融合させた作品です。セリフはありません。
アニメーションではバレエの表現もたくさん出てきます。
クレジットされていませんが、バランシンが作品に影響を与えたと言われます。
1938年バランシンは「華麗なるミュージカル(The Goldwyn Follies)」という映画で振付をしています。
共通点は見いだせたでしょうか?
ちなみにこのような写真が残っています。
「Arizona Public Media」より
左からバランシン、ストラヴィンスキー(音楽家)、T・ヒー(アニメーター)、ウォルト・ディズニーです。1941年の3月23日に撮影された写真です。
このようにアメリカのバレエに多大な影響を与えた人物です。
抽象バレエ
抽象バレエ(アブストラクト・バレエ)とは、音楽という目に見えない芸術を、視覚的にダンスで表現するバレエのことです。
バランシンは、抽象バレエの表現に成功した振付家です。
New York City Balletより
こちらはジョルジュ・ビゼー作曲、バランシン振付「シンフォニー・イン・C」の第4楽章です。
「シンフォニー・イン・C」はもともと「水晶宮」という題名で、宝石をテーマにした作品でした。
「水晶宮」をさらに白黒の世界にまでシンプルにし、題名を曲目である「シンフォニー・イン・C」に変更します。
抽象バレエの極地まで到達します。
バランシンの経歴
抽象バレエの解説の前に、まずはバランシンの人生を紹介します。
1904年1月22日:サンクトペテルブルグ生まれ(父はグルジア人の作曲家、母はピアニスト、弟は作曲家)
1914年:ロシア帝室バレエ学校(現ワガノワ・バレエ・アカデミー)入学、レニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)でピアノと作曲法も学ぶ
1921年:マリインスキーのバレエ団に入団
1924年:ソ連のダンサーとしてパリに来たときに亡命
1924年:ディアギレフが率いる「ロシア・バレエ団」(後のバレエ・リュス)に参加
1929年:ディアギレフの急死により「バレエ・リュス」解散
1933年:バレエ団「Les Ballets 1933」設立。前衛的すぎてすぐに解散
1933年:アメリカでバレエ団創設を目指すリンカーン・カースティンに招かれ渡米
1934年:バレエ学校「スクール・オブ・アメリカン・バレエ」創設
1935年:バレエ団「アメリカン・バレエ」創設
1938年:「アメリカン・バレエ」が解散
1941年:戦時中に「アメリカン・バレエ・キャラバン」を発足し6ヶ月南米ツアー後解散
1946年:リンカーン・カースティンと「バレエ協会」(後のニューヨーク・シティ・バレエ団)創設
1948年:「バレエ協会」の名称を「ニューヨーク・シティ・バレエ団」に変更
1964年:ニューヨーク・シティ・バレエ団がリンカーン・センター内のニューヨーク州立劇場(後のディヴィッド・H・コーク劇場)の常設バレエ団に
1983年4月30日:79歳で死去
400以上の作品を制作。現在も50以上の作品が上演され続けています。
亡命後(1924年~)
ジョージ・バランシンは、亡命後の1924年「バレエ・リュス」で振付家としての才能を発揮します。
「バレエ・リュス」では、ミハイル・フォーキン、ニジンスキー、レオニード・マシーンという新時代の振付家が生まれました。その後を継ぎ、「バレエ・リュス」最後の5年をバランシンが支えました。
1933年
ジョージ・バランシンがボリス・コフノと「Les Ballets 1933」というバレエカンパニーを設立し、ロンドン、パリで公演を行います。かなり前衛的なバレエ団でした。この新しさは観客に受け入れられず、興行は失敗してしまいます。
しかし、アメリカ人資産家のリンカーン・カースティンは「Les Ballets 1933」に感銘を受けます。リンカーン・カースティンは常々バレエをアメリカに広めたいと考えていました。リンカーン・カースティンは、ジョージ・バランシンにバレエ団と学校を作ることを約束しニューヨークに招きます。
この後50年間に渡り、リンカーン・カースティンがジョージ・バランシンのパトロンとしてサポートし続けます。
1934年
バレエ学校である「スクール・オブ・アメリカン・バレエ」が設立されました。
バランシンからの提案でバレエ学校をつくることになりました。いきなりバレエ団を作るのではなく、バレエ団に必要なダンサーの育成が必要不可欠と考えたようです。
1935年
スクール・オブ・アメリカンバレエの卒業生たちを集め「アメリカン・バレエ」というバレエ団を発足します。企画・経営はリンカーン・カースティン、芸術監督・振付はジョージ・バランシンという役割分担が決まります。この体制は、のちに誕生する「ニューヨーク・シティ・バレエ団」でも引き継がれます。
そして、「アメリカン・バレエ」はリンカーンセンター内にあるメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)専属のバレエ団になります。現在「アメリカン・バレエ・シアター」が拠点としています。
しかし、ジョージ・バランシンの振付はメトロポリタン歌劇場の経営陣からは評判がよくありませんでした。
ちなみにリンカーンセンターはリンカーン・カースティンと関係がありそうですが、建設地の地区名であるリンカーン・スクエアからリンカーン・センターという名前がつけられました。とはいえ、リンカーン・カースティンとリンカーンセンター。運命的なものを感じます。
1936年
リンカーン・カースティンが「バレエキャラバン」を設立。劇場を持たないバレエ団でツアーカンパニーといいます。「バレエキャラバン」ではバランシンの代表作となる作品も数々発表されています。活動期間は1940年までの4年間でした。
1938年
「アメリカン・バレエ」が解散。ジョージ・バランシンとメトロポリタン歌劇場の折り合いがつかず、バランシンが去ることを決意します。
1941年
第二次世界大戦の影響もあり、バレエ・キャラバンとアメリカン・バレエ団の残ったメンバーで新たなツアーカンパニー「アメリカン・バレエ・キャラバン」が発足されます。国務省の支援によって6ヶ月間ラテンアメリカ・ツアーを行いました。
その後は戦争の影響で活動が一時滞ります。
戦後
1946年
リンカーン・カースティンとジョージ・バランシンで「バレエ協会」を設立。会員制でバレエ公演を再開します。
1948年
「バレエ協会」がニューヨーク・シティ・センター専属バレエ団に。そして、この時「バレエ協会」の名称が「ニューヨーク・シティ・バレエ団」に変更されます。
これが「ニューヨーク・シティ・バレエ団」のはじまりです。
ジョージ・バランシンが芸術監督になり、ジェローム・ロビンズ(「ウエストサイドストーリー」の振付で有名)が助監督に就任します。
1964年
ニューヨーク州立劇場へ移転します。ニューヨーク州立劇場は「ディヴィッド・H・コーク劇場」に改名される前の名称です。
そして、1982年まで作品をつくり続け、1983年に永眠します。
抽象バレエをより深く
1930年代、ストーリーのないバレエをつくり出す振付家が2人いました。
それが「バレエ・リュス」で活躍したレオニード・マシーンと、ジョージ・バランシンです。
ただし2人のスタイルは大きく異なります。
レオニード・マシーンの振付にストーリーはないものの、明確なテーマがありました。
それに対し、バランシンはテーマを設定していないことが多いです。
作品の解釈は観客に委ねられていて、作品からテーマを感じる人もいれば、純粋に踊りを楽しむ人もいます。
抽象バレエ
バランシンは古典バレエ作品の矛盾に、「抽象バレエ」という解答を提示しました。
例えば「眠れる森の美女」。「眠れる森の美女」は全3幕の物語バレエです。ですが、ストーリーは第2幕でほぼ完結し、第3幕は踊りを楽しむシーンとなっています。
古典バレエは、物語をマイムで進行していきます。そして、踊りはストーリーと関係ないことが多いです。
踊りと物語が別々になっていることに違和感を感じたバランシンは作品を違う視点でとらえ、そもそもの物語を無くしてしまえばイイと考えます。音楽を表現するバレエはこうして生まれました。
バランシンのバックグランドとしてまず音楽的知識の深さが挙げられます。
また、抽象バレエに集中できるよう舞台セット、衣装をシンプルにしたことも大きな変化でした。チュチュではなく、レオタードで踊らせるというのもかなり画期的でした。
クラシックが基礎
バランシンの振付はネオクラシック(ネオは「neo:新しい」という意味)と呼ばれますが、動きの基礎はクラシックバレエです。
クラシックバレエをもとにし、さらに動きを発展しているので、古典バレエが好きな観客にとっても、新しいバレエを見たい観客にとっても楽しい舞台となっています。
筋書きがない
バランシン作品の多くは、物語の筋書きがありません。
ステップや動作には意味がありません。
それゆえダンスを日常の延長として感じることができず、生命の本質を感じることができるといわれます。
物語を説明するような動作はなく、物語を語るということもありません。
バランシンをより知りたい方へ
バランシンに関する本はたくさん出版されていますが、出版年が古いので廃盤になっていることも多いです。
バランシンについての本です。
チャイコフスキーについて語るバランシンの本です。バランシンの音楽的な知性の高さを感じられる本です。
バランシンは歴史上の人物でありながら1980年代まで生きていました。そのためインタビューも多く残っていたり、一緒に作品を創作した人たちの本などにもよく登場します。
それだけ重要な人物でした。

「ジョージ・バランシン」についてでした。
ありがとうございました。
舞台鑑賞好きの僕が劇場に行くときに知っておくとちょっと得する話をのせています。バレエを中心に紹介しています。