ジョージ・バランシン:バレエからテーマをなくした偉大な振付家
jazz

ジョージ・バランシンとは?
バレエの歴史を変えた人物?
振付の特徴は?

20世紀のバレエ振付家で 1番評価されているのが、ジョージ・バランシンです。

ロシア出身のダンサーです。

1924年、革命で混乱するソ連からヨーロッパに亡命します。

その後ニューヨークに渡り、自身のバレエ団を設立し大成功させた歴史的な人物です。

記事を書いているのは……

元劇団四季、テーマパークダンサー。舞台、特にバレエを観に行くのが大好きで、年間100公演観に行った記録があります。

kazu

今回は、「ジョージ・バランシン」についてです。

※ 3分ほどで読み終わります。

ジョージ・バランシンとは

NYCBホームページより

ジョージ・バランシン( George Balanchine )

バランシンはたくさん功績を残しています。

中でも 2つの功績が挙げられます。

バランシンの功績

・アメリカンバレエの確立
・抽象バレエの確立

アメリカン・バレエ

バランシンはロシア出身ですが、アメリカでバレエを芸術の地位まで押し上げました。

広めただけでなく、自身のスタイルを発展させ体系化しました。これがアメリカン・バレエのスタイルとなっています。

その証拠となるのが、ディズニー作品の『ファンタジア』です。

4,000円ほど。

1940年に公開された『ファンタジア』は、クラシックの名曲 8曲とアニメーションを融合させた作品です。

セリフはありません。

アニメーションでは、バレエの表現がたくさん登場します。

こちらのシーンに注目です。バランシンの名前はクレジットされていませんが、作品に影響を与えたと言われます。

この 2年前( 1938年)、バランシンは『華麗なるミュージカル( The Goldwyn Follies )』という映画で振付をしています。

共通点がよくわかります。

ちなみにこのような写真が残っています。

ジョージ・バランシンとウォルト・ディズニー「ファンタジ」での様子

「Arizona Public Media」より

左からバランシン、ストラヴィンスキー(音楽家)、T・ヒー(アニメーター)、ウォルト・ディズニーです。1941年、3月23日に撮影された写真です。

抽象バレエの確立

抽象バレエ(アブストラクト・バレエ):音楽という目に見えない芸術を、視覚的にダンスで表現するバレエ

シンフォニック・バレエとも呼ばれる。(交響曲に振付られたテーマのないバレエ)

バランシンは、抽象バレエの表現に成功した振付家です。

New York City Balletより

こちらはジョルジュ・ビゼー作曲、バランシン振付『 シンフォニー・イン・C 』の第4楽章です。

バランシン振付『シンフォニー・イン・C 』作品解説・特徴・見どころポイント

『 シンフォニー・イン・C 』はもともと『水晶宮』という題名で、宝石をテーマにした作品で色にあふれていました。

『水晶宮』から色を取り去り、白黒の世界にまでシンプルにし、題名を曲目である『 シンフォニー・イン・C 』に改訂します。

抽象バレエの極地まで到達します。

バランシンの経歴

まずはバランシンの人生を紹介します。

経歴

1904年1月22日:サンクトペテルブルグ生まれ(父はグルジア人の作曲家、母はピアニスト、弟は作曲家)
1914年:ロシア帝室バレエ学校(現ワガノワ・バレエ・アカデミー)入学、レニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)でピアノと作曲法も学ぶ

1921年:マリインスキーのバレエ団に入団
1924年:ソ連のダンサーとしてパリに来たときに亡命

1924年:ディアギレフが率いる「ロシア・バレエ団」(後のバレエ・リュス)に参加
1929年:ディアギレフの急死により「バレエ・リュス」解散
1933年:バレエ団「 Les Ballets 1933 」設立。前衛的すぎてすぐに解散

1933年:アメリカでバレエ団創設を目指すリンカーン・カースティンに招かれ渡米
1934年:バレエ学校「スクール・オブ・アメリカン・バレエ」創設
1935年:バレエ団「アメリカン・バレエ」創設
1938年:「アメリカン・バレエ」が解散
1941年:戦時中に「アメリカン・バレエ・キャラバン」を発足し 6ヶ月南米ツアー。その後解散

1946年:リンカーン・カースティンと「バレエ協会」(後のニューヨーク・シティ・バレエ団)創設
1948年:「バレエ協会」の名称を「ニューヨーク・シティ・バレエ団」に変更
1964年:ニューヨーク・シティ・バレエ団がリンカーン・センター内のニューヨーク州立劇場(後のディヴィッド・H・コーク劇場)の常設バレエ団に
1983年4月30日:79歳で死去

400以上の作品を制作しました。

現在も、50以上の作品が上演され続けています。

亡命後(1924年~)

ジョージ・バランシンは、亡命後の1924年「バレエ・リュス」で振付家としての才能を発揮します

バレエ・リュス

ディアギレフ(ロシア出身:1872年 – 1929年 )がプロデューサーとして発足したバレエ団。

ロシアで花開いたバレエをフランスに紹介。ヨーロッパでバレエが芸術として復活するムーブメントを起こす。

バレエの音楽や舞台美術は劇場で働くスタッフが担当していたが、ディアギレフが当時活躍した一流のアーティストに依頼。バレエを総合芸術まで高めた。

「バレエ・リュス」では、ミハイル・フォーキン、ニジンスキー、レオニード・マシーンという新時代の振付家が生まれました。

その後、「バレエ・リュス」最後の 5年をバランシンが支えました。

1933年

ジョージ・バランシンがボリス・コフノと「 Les Ballets 1933 」というバレエカンパニーを設立し、ロンドン、パリで公演を行います。

かなり前衛的なバレエ団でした。この新しさは観客に受け入れられず、興行は失敗してしまいます。

しかし、アメリカ人資産家のリンカーン・カースティンは「 Les Ballets 1933 」に感銘を受けます。

リンカーン・カースティンは常々バレエをアメリカに広めたいと考えていました。リンカーン・カースティンは、ジョージ・バランシンにバレエ団と学校を作ることを約束しニューヨークに招きます。

この後 50年間に渡り、リンカーン・カースティンがジョージ・バランシンのパトロンとしてサポートし続けます。

1934年

バレエ学校である「スクール・オブ・アメリカン・バレエ」が設立されました。

バランシンからの提案でバレエ学校をつくることになりました。いきなりバレエ団を作るのではなく、バレエ団に必要なダンサーの育成が必要不可欠と考えたようです。

1935年

スクール・オブ・アメリカンバレエの卒業生たちを集め「アメリカン・バレエ」というバレエ団を発足します。

企画・経営はリンカーン・カースティン、芸術監督・振付はジョージ・バランシンという役割分担が決まります。

この体制は、のちに誕生する「ニューヨーク・シティ・バレエ団」でも引き継がれます。

ニューヨーク・シティ・バレエ団はリンカーンセンターの左側
左側が「ディヴィッド・H・コーク劇場(旧ニューヨーク州立劇場)」、真ん中が「メトロポリタン歌劇場」。

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リンカーンセンター内にある劇場と本拠地にするカンパニー

そして、「アメリカン・バレエ」はリンカーンセンター内にあるメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)専属のバレエ団になります。現在「アメリカン・バレエ・シアター」が拠点としています。

しかし、ジョージ・バランシンの振付はメトロポリタン歌劇場の経営陣からの評判がよくありませんでした。

ちなみにリンカーンセンターはリンカーン・カースティンと関係がありそうですが、建設地の地区名であるリンカーン・スクエアからリンカーン・センターという名前がつけられました。

とはいえ、リンカーン・カースティンとリンカーンセンター。運命的なものを感じます。

1936年

リンカーン・カースティンが「バレエ・キャラバン」を設立。劇場を持たないバレエ団でツアーカンパニーと呼ばれます。

「バレエ・キャラバン」ではバランシンの代表作となる作品も数々発表されています。活動期間は 1940年までの 4年間でした。

1938年

「アメリカン・バレエ」が解散。

ジョージ・バランシンとメトロポリタン歌劇場の折り合いがつかず、バランシンが去ることを決意します。

1941年

第二次世界大戦の影響もあり、バレエ・キャラバンとアメリカン・バレエ団の残ったメンバーで新たなツアーカンパニー「アメリカン・バレエ・キャラバン」が発足されます。

国務省の支援によって 6ヶ月間 ラテンアメリカ・ツアーを行いました。

その後は戦争の影響で活動が一時滞ります。

戦後

1946年

リンカーン・カースティンとジョージ・バランシンで「バレエ協会」を設立。

会員制でバレエ公演を再開します。

1948年

「バレエ協会」がニューヨーク・シティ・センター専属バレエ団に。

この時「バレエ協会」の名称が「ニューヨーク・シティ・バレエ団」に変更されます。

これが「ニューヨーク・シティ・バレエ団」のはじまりです。

ジョージ・バランシンが芸術監督になり、ジェローム・ロビンズ( 「ウエストサイドストーリー」の振付で有名)が助監督に就任します。

1964年

ニューヨーク州立劇場へ移転します。ニューヨーク州立劇場は「ディヴィッド・H・コーク劇場」に改名される前の名称です。

そして、1982年まで作品をつくり続け、1983年に永眠します。

抽象バレエをより深く

1930年代、ストーリーのないバレエをつくり出す振付家が 2人いました。

それが「バレエ・リュス」で活躍したレオニード・マシーンと、ジョージ・バランシンです。

ただし 2人のスタイルは大きく異なります。

レオニード・マシーンの振付にストーリーはないものの、明確なテーマがありました。

それに対し、バランシンはテーマを設定していないことが多いです。

作品の解釈は観客に委ねられていて、作品からテーマを感じる人もいれば、純粋に踊りを楽しむ人もいます。

抽象バレエ

古典バレエ作品の持つ矛盾に、「抽象バレエ」という解答を提示しました。

古典バレエは、物語をマイム(パントマイム:手話のように決まった動きが言葉の代わりになるダンス)で進行していきます。

そして、踊りはストーリーと関係ないことが多いです。

例えば『眠れる森の美女』 。全3幕の物語バレエです。ストーリーは第2幕でほぼ完結し、第3幕は踊りを楽しむシーンとなっています。

踊りと物語が別々になっていることに違和感を感じたバランシンは作品を違う視点でとらえ、そもそもの物語を無くしてしまえばイイと考えます。

音楽を表現するバレエはこうして生まれました。

バランシンのバックグランドに音楽的知識の深さがあります。

また、抽象バレエに集中できるよう舞台美術、衣装をシンプルにしたことも大きな変化でした。

チュチュではなく、レオタードで踊らせるというのもかなり画期的でした。

クラシックが基礎

バランシンの振付はネオクラシック(ネオは「neo:新しい」という意味)と呼ばれますが、動きの基礎はクラシックバレエです。

クラシックバレエをもとにし、さらに動きを発展しているので、古典バレエが好きな観客にとっても、新しいバレエを見たい観客にとっても楽しい舞台になっています。

筋書きがない

バランシン作品の多くは、物語の筋書きがありません。

ステップや動作には意味がありません。

それゆえダンスを日常の延長として感じることができず、生命の本質を感じることができると評価されています。

物語を説明するような動作はなく、物語を語るということもありません。

バランシンをより知りたい方へ

バランシンに関する本はたくさん出版されていますが、出版年が古いので廃盤になっていることも多いです。

バランシンについての本です。

チャイコフスキーについて語るバランシンの本です。バランシンの音楽的な知性の高さを感じられる本です。

バランシンは歴史上の人物でありながら1980年代まで生きていました。

そのためインタビューも多く残っており、一緒に働いた人たちの本などにも登場します。

動画配信サイトでもバレエの公演を見ることができます。

ぜひ無料期間を活用してみてください。

kazu

今回は、「ジョージ・バランシン」についてでした。
ありがとうございました。

ニューヨーク・シティ・バレエ団についての記事をたくさん書いています。ぜひご覧ください。