- 「国宝」と呼ばれる天才が背負う、残酷な因果と狂気の本質
- 説明的なセリフを徹底排除した役者陣の「無言の凄み」
- 世襲という名の呪いと血筋の重み(市川中車と市川海老蔵の共演から見えたもの)
映画『国宝』は、華やかな伝統芸能の裏側で、芸という名の怪物に人生を捧げ、魂を削りながら生きる人間たちの凄絶な姿を描き出した作品です。
正直に言うと、予告編から受けた印象とは大きく異なり、いい意味でプロットも熱量も裏切られた映画体験でした。鑑賞後には、歌舞伎の持つ歴史や権威、そして個人の人生をも呑み込んでいく強さについて、深く考えさせられました。
今回は、映画『国宝』の基本情報やあらすじといった概要をお伝えしつつ、僕自身の視点や、実際の歌舞伎観劇で感じた経験を交えながら、本作の核心へと迫る独自の感想・考察をお届けします。
元劇団四季、テーマパークダンサー。社割を使えたときは週2回 映画館へ行っていました。最近はネットで映画をたっぷり。
※ 3分ほどで読み終わります。
映画『国宝』|作品情報・キャスト
まずは、映画『国宝』の基本情報です。
映画『国宝』作品情報
Movie Information
| 作品名 | 『国宝』 |
|---|---|
| 原作 | 吉田修一『国宝』(朝日文庫) |
| 監督 | 李相日(リ・サンイル):『悪人』『怒り』『流浪の月』など |
| 脚本 | 奥寺佐渡子:『サマーウォーズ』『八日目の蝉』など |
映画『国宝』|あらすじ
昭和から平成へ――激動の時代を背景に、歌舞伎の世界を生き抜く二人の役者の物語。
戦後の混乱期に生まれた立花喜久雄(吉沢亮)は、恵まれた容姿と天性の才能を持ちながら、血筋を持たないため常に孤独と闘ってきた青年。
一方、名門の家に生まれ、将来を約束された大垣俊介(横浜流星)は、伝統という強大な後ろ盾を背負いながらも、自身の芸の限界に苦しむ。
二人はやがて歌舞伎の舞台で出会い、互いを意識しながら切磋琢磨していく。
そこには、時代に翻弄される女たち――喜久雄を支え続ける福田春江(高畑充希)、そして母として、女として複雑な想いを抱える大垣幸子(寺島しのぶ)の存在があった。
華やかな歌舞伎の舞台の裏で、名誉と嫉妬、伝統と革新、芸に命を捧げる者たちの人生が交錯していく。やがて二人の宿命的な関係は、避けられぬ結末へと向かっていく――。
主な出演者・キャスト
Cast
| 吉沢亮 | 立花 喜久雄(たちばな きくお) |
|---|---|
| 横浜流星 | 大垣 俊介(おおがき しゅんすけ) |
| 高畑充希 | 福田 春江(ふくだ はるえ) |
| 寺島しのぶ | 大垣 幸子(おおがき ゆきこ) |
| 渡辺謙 | 花井 半二郎(はない はんじろう) |
| 田中泯 | 小野川 万菊(おのがわ まんぎく) |
芸のためにすべてを捧げる者と、世襲で役者の道を歩む者。ふたりのライバル関係を軸に、歌舞伎の世界が描かれます。
Amazonで配信中です。
映画『国宝』ネタバレありの感想・考察
才能があり(容姿を含め)、運があり、努力ができる。しかし、すべてがずっと理想の状態であり続けるわけではありません。
どれか1つでも弱くなると、一瞬で崩れてしまう過酷な世界を描いています。
「国宝」の残酷さ
主人公の立花喜久雄(吉沢亮)は、挫折に陥っても前に進み続けます。時にあまりに自分本位で、周囲を顧みない非情な選択をすることもあります。
ひとは自分勝手に生きてもイイと思います。ただし、自分勝手に生きる以上、その代償は必ず自分にも返ってくる。決して「いいとこ取り」はできません。その残酷な因果を背負い、常人には決して貫けない狂気を貫き通すからこそ、喜久雄は「国宝」と呼ばれる存在なのだと痛感させられます。
なお、本作は吉沢亮と横浜流星のダブル主演と謳われているものの、やはり喜久雄が主役であると感じます。
説明的なセリフを排除した役者たちの「無言の凄み」
映画全体を通して説明的なセリフがほとんどなく、役者が演技力で感情の空白を補完しています。特に高畑充希と寺島しのぶの二人がそれを体現しています。
喜久雄についてきたはずなのに、なぜか俊介(横浜流星)とくっついてしまう春江(高畑充希)。しかもよりにもよって、喜久雄のすぐそばにいる俊介を選んでしまう。行動だけを見ればどう考えても身の振り方がおかしいのですが、劇中でそこに一切の説明はないし、言い訳もありません。
また、俊介の母・幸子(寺島しのぶ)の描写も見事です。実は喜久雄に深く感謝しているものの、それを伝えることはありません。セリフで言わせないため、喜久雄本人に幸子の真意は伝わりません。しかし観客には、幸子の複雑な胸中が痛いほど伝わってきます。
制限された自由の中で「役割」を生きる潔さ
時代設定が的確です。昭和から平成という、それぞれの登場人物が「個人の自由のために生きるわけではない」という、あの時代特有の空気が漂っています。
出演者はまるで、最初から与えられた役割を演じるように生きています。もちろん、一人ひとりにちゃんと個人の感情や葛藤はあります。しかし、制限された自由の枠の中で生きています。
今の時代から見るととても息苦しいのですが、明確な役割を持って生きているため同時にどこか羨ましく思えてしまいました。与えられた役割の中で、もがき、苦しみながらも生き抜いていく。その不器用な生き様が、たまらなく潔かったです。
世襲という名の「呪い」と血筋の重み
現代の僕たちから見ると、歌舞伎は敷居の高い芸術です。しかし、本作で描かれている時代において、歌舞伎は芸術であると同時に、役者がどこか卑下もされていたという側面を持っています。だからこそ、「血筋」が絶対的な意味を持ちます。
血筋は時を経て歴史となり、やがて逆らうことのできない権威へ変わります。幼少期から歌舞伎の世界に身を置き、舞台に立ち続けてきた役者は、全身からその歴史の重みを放ちます。
市川中車と市川海老蔵の共演に見た「埋められない溝」
一時期、僕が歌舞伎を見に行っていた頃、その「血筋の重み」を肌で感じる出来事がありました。
名優である父・猿翁(えんおう)と長年疎遠だった香川照之さんが、「市川中車(ちゅうしゃ)」として歌舞伎役者の道を歩み始めた頃、市川海老蔵さんと共演していた舞台でのことです。背景には父との跡目問題や、自身の息子(現・市川團子)が歌舞伎の世界に入るための環境を整えるという、並々ならぬ決意があったと言われています。
現代劇の世界でのキャリアがあるため、存在感は決して負けていませんでした。しかし、いざ舞台上での所作や発声を比べると、幼少期から歌舞伎の血を吸って育ってきた海老蔵さんとは明確な差がありました。これは、素人の観客の目から見ても分かるほど生々しいものでした。
世襲という「運」に抗う喜久雄
ですが、主人公の喜久雄はこの世襲の縮図には当てはまりません。血筋を持たない身でありながら、己の純粋な芸だけで成り上がっていきます。
一方で、ライバルとして立ちはだかる俊介は、世襲主義の世界に生まれたという圧倒的な運を持っています。とはいえ、どこかが、何かが足りません。
世襲の限界が、喜久雄という天才の才能に負けてしまうかもしれないと思わせる、危うさと頼りなさがあります。だからこそ、喜久雄という「外からの血」が交わることで、停滞しかけていた家が、歌舞伎界が、活性化していくことになります。
しかし、どれほど天才であっても、世襲の世界で生き抜くためには強固な後ろ盾が必要です。喜久雄はやがて、その冷酷なシステムの中で裏切られる苦しみを味わい、個人の力で抗うことができなくなっていきます。物語の途中で、竹野(三浦貴大)が語った不穏な予言が、最悪の形で現実のものになってしまいます。
やはり、歌舞伎という完成された様式美は、劇場という特別な空間があって初めて成立するものなのだと思い知らされます。喜久雄はのちに、彰子(森七菜)とともに地方のドサ回りを経験しますが、どんなに天に選ばれた才能があっても、それを披露する劇場がなければ才能がないのと同じ。舞台という魔物に魅入られた人間の、あまりにも切なく、過酷な現実がそこにありました。
再会
喜久雄と俊介が再度共演するとき、普通なら仲違いしそうなものだったり、ぎくしゃくしそうなものですが、2人からそのような感情が全く見えません。ここが一番考えさせられました。
僕はダンサーをしていましたが、共演者同士で仲が悪いということは珍しくありません。出演前までお互いに避け合って絶対にコミュニケーションを取らないのに、本番が始ると嘘みたいに仲の良い演技をする。表舞台に出てしまえば、私生活なんて関係ない。ある意味プロフェッショナル。プロフェッショナルなのか……。こだわりがある分、相容れないことは多々あります。そんなことを思い出してしまいました。
彼らの関係は、嫉妬とかそういうレベルの話ではありません。ただただ芸に向き合い、芸を高めるために必要なことならなんでもするという気概です。春江はきっとそれを感じていたし、喜久雄のプロポーズをはぐらかした時点で、二人の関係は終わっていたのだと思います。
その後も続いた不思議な関係は、自由恋愛が当たり前の今ではなかなか共感しにくいのですが、理解はできます。春江は喜久雄を追いかけ続け、やがて彼がトップスターに登りつめた姿を見届けた。その先にあったのは、女としての覚悟であり、芸にすべてを捧げる者を前にしたひとりの女の誇りでした。
役者に人生を捧げながら、役者として生きる。それは仕事でもあり、好きとかいうレベルの話ではない。だからこそ俊介も喜久雄も歌舞伎界に戻って来ます。
舞台を穢す
ただ、世襲の2人である花井半二郎(渡辺謙)と俊介が舞台を穢してしまいます。たとえ突発的な出来事だったとしても、舞台は死ぬ気で守らなければいけない。そうでないと内輪向けの閉じた世界になってしまう。万菊を演じる田中泯さんの目がそう語っていたように見えました。
かつて、親の死に目に会えなくても舞台に穴を開けるな、と言われた時代がありました。特に『国宝』の描いている時代はその真っただ中。さらに厳しい時代を生きていた万菊だからこその目線です。死に際のシーンも圧倒的に印象に残ります。
田中泯さんに関して、僕は先にダンサーとして名前を知っていました。「場踊り」という独自の言葉を使い、即興的に場所・自然・環境と一体化する踊りを展開しています。本人はそう呼ばれるのを嫌がるようですが、暗黒舞踏に通じるダンスを感じます。
暗黒舞踏:いわゆる「踊り」の枠を越えた前衛的な表現。身体を削り取るような極限の表現であり、肉体の内面をむき出しにする。
暗黒舞踏の流れを汲むダンスは、一般にはほとんど知られていないマイナーな世界です。中には30分以上、ほとんど動かないという舞台もあります。
「いや、筋肉が微かに動いてるんだよ」――そう言われても「わかるかー!」とツッコミたくなるほど極端で、だからこそ芸術家としての枯渇感と渇望が同居しているように感じます。
その「静の中に潜む緊張感」を知る田中泯さんだからこそ、あの目は鋭く、万菊の人生と芸の重みを一瞬で伝えることができたのだと思います。
芸術家は渇望がないと枯れてしまう。物質的に満たされるほど、反比例するように演技が痩せていく――万菊の最期は、その残酷な真理を思い知らされる場面でした。あえて(あるいは結果として)みすぼらしい場所で迎える死は、このことを強く刻んでいました。
俊介の最後
俊介は足が悪い中でも舞台に立とうとします。その姿は役者としてではなく、俊介その人が舞台に立っているように見えました。ある意味で舞台の私物化に近いのですが、役者にはそうした自由もあります。
通常の舞台は演出家がいてパワーバランスが保たれますが、歌舞伎界は家の権威や伝統が優先されるため、事情が違います。そこを押し通すのか、あるいは引退を選ぶのか。
この選択こそが俊介の限界であり、冒頭で感じた「何かが足りない」という印象の正体です。喜久雄との決定的な違いが、まさにここにあります。
ここから現代の歌舞伎に思いが及びました。観劇がステータスと結びつく側面があり、過度な持ち上げが芸の緊張感を鈍らせていないか、と一観客として感じる瞬間があります。支援の文化は貴重ですが、距離の取り方を誤ると内向きの世界になってしまう。時折起こるスキャンダルは、その脆さの表れにも見えています。
映画の美しさと年齢描写のジレンマ
一点だけ気になったのは、映像のアップがあるからこそ、二人の美しさが前に出すぎてしまい、青年期とミドル期の違いが十分に伝わらなかったことです。
『藤娘』は物語の中で二度、重要な場面として登場しますが、その変化が画面からあまり感じ取れませんでした。
これは舞台と映画の違いを象徴しているように思います。たとえばバレエ『ロミオとジュリエット』では、14歳のジュリエットを40代の円熟したダンサーが演じることも珍しくありません。舞台は距離感や照明、メイクによって観客に説得力を与えるため、大きな違和感を抱かせません。
しかし映画はアップで映すため、年齢の変化をどう見せるかがより重要になります。今作ではその作り込みがやや弱く、老けている場面が十分に機能していなかったように感じてしまいました。
一人の役者が最初から最後までを演じきる、という映画ならではの贅沢さと意味も十分に理解できるからこそ、この表現のバランスは非常に難しいところです。
以上、映画『国宝』の感想・考察でした。
素晴らしい作品で、多くの映画ファンが「原作を読む方がいい」とレビューしていたので、僕もぜひ原作小説を読んでみたいと思います。文字で描かれる緻密な心理描写や歌舞伎の背景に触れたとき、自分の感想がどう変化するのか、今からとても楽しみです。
上下巻に分かれています。
それぞれ1,000円前後です。
エンタメ作品に関してはこちらで紹介しています。ぜひご覧ください。


上巻の内容・感想:女性の自立と教育.jpg)
内容と解説、関連作品.jpg)

ハイクオリティCG.jpg)

