
ジャズダンスの語源は?
ジャズの歴史は?
ニューオリンズの役割とは?
ジャズダンスは、20世紀初頭のアメリカで誕生し、音楽とともに進化を遂げてきたダンススタイルです。その起源は、アフリカ系アメリカ人の文化や音楽、そしてヨーロッパのダンス要素が融合したものであり、時代とともに多様なスタイルへと発展してきました。
本記事では、ジャズダンスの起源からアメリカでの発展、そして世界への広がりまでを、歴史的背景や影響を受けた人物・ジャンルを交えて詳しく解説します。ダンス愛好者から研究者まで、幅広い読者にとって有益な情報を提供することを目指しています。
ジャズダンスの豊かな歴史とその魅力を、ぜひ一緒に探求していきましょう。
元劇団四季、テーマパークダンサーで出演回数は5,000回以上。ダンス、ヨガ(RYT200取得)、ピラティス、ジムにも20年ほど通っています。
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「ジャズ(Jazz)」という語の語源|名称変更の背景
「ジャズ(Jazz)」という語は、その起源に諸説ありますが、有力な説では19世紀の英語俗語「ジャズム(jasm)」に由来するとされます。「ジャズム」は「活力」「生命力」を意味し、1860年頃には既に使用例がありました。専門の語源学者ジェラルド・コーエンらの研究によれば、後に「ジャズ」は性行為の隠語として使われるようになりますが、それは1918年以降のことであり、この語の元来の意味ではありません。
一方、語源に関してはアフリカ起源説(アフリカの言語に由来するという説)やフランス語起源説(お喋りを意味するフランス語 jaser に由来するという説)も根強く唱えられてきました。しかし、語源学の専門的調査では、1910年代初頭にカリフォルニアで白人のスポーツ記者が使い始めた事例が最古であることが確認されており、アフリカ系やフランス語との直接の関係は裏付けがありません。実際、最初期の新聞での綴りは「jazz」でした(1912年4月のロサンゼルスタイムズ紙)。1913年のサンフランシスコ・ブレティン紙では、この新語「ジャズ」の意味を「古い活力(old life)、元気(pep)のことだ」と解説しており、当時この語が新語として認識されていたことがわかります。
「Jass」から「Jazz」への綴り変更
ジャズ史では、1917年に初めて商業録音を行った白人バンド「オリジナル・ディキシーランド・ジャス・バンド(Original Dixieland Jass Band, 略称ODJB)」がバンド名の綴りを Jass から Jazz に改めた逸話が知られています。当時は「ジャズ」という言葉自体が新しく、綴りも安定していませんでした。実際、ビクター社が1917年に出したODJBのレコード広告では「Spell it Jass, Jas, Jaz or Jazz – nothing can spoil a Jass band」(「JassでもJasでもJazでもJazzでも――どんな綴りでもジャス・バンドの魅力は損なわれない」)と謳っており、綴りに揺れがあったことが分かります。
Tiger Rag – The Original Dixieland Jazz Band (1917)
「Tiger Rag」は、1917年にオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixieland Jass Band, ODJB)によって録音されたジャズのスタンダードナンバーであり、ジャズ史における重要な楽曲の一つです。バンドのメンバーであるニック・ラロッカ(Nick LaRocca)、エディ・エドワーズ(Eddie Edwards)、ヘンリー・ラガス(Henry Ragas)、トニー・スバーバロ(Tony Sbarbaro)、ラリー・シールズ(Larry Shields)によって作曲されました。「Tiger Rag」は直訳すると「虎のラグ」となります。ここでの「ラグ」は「ラグタイム(Ragtime)」の略で、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカで流行した音楽スタイルを指します。ラグタイムの最大の特徴は、拍の弱部を強調するシンコペーションと呼ばれるリズム構成です。これにより、独特の「跳ねる」ようなリズム感が生まれます。
ニック・ラロッカ(Nick LaRocca) – イタリア系米国人のコルネット奏者で、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)のリーダーとして1917年に世界初のジャズ録音を行いました。同バンドは当初「Jass Band」と名乗りましたが、ラロッカはポスターからJを消されるイタズラへの対策としてバンド名を「Jazz Band」に変更したと語っています。彼のバンドは白人中心でしたが、ジャズを全米に広める立役者となり、ラロッカ自身も「ジャズ創始者」を自負して後年まで活動しました。
「Tiger Rag」は、ルイジアナ州立大学(LSU)やクレムソン大学など、マスコットがタイガーである多くの大学の応援歌として採用され、アメリカ南部の大学スポーツ文化に深く根付いています。
話を戻します。では、なぜ綴りが「Jazz」に統一されたのか……。その背景にある、有名な説の一つに次のようなものがあります。ODJBのリーダーでコルネット奏者のニック・ラロッカは回想で、「子供や一部の大人がポスターからJの文字を消して“ass(ケツ)”という卑猥な単語を浮かび上がらせるいたずらをするので、綴りをJazzに変えたのだ」と述べています。このエピソードが事実かどうかは定かではありませんが、当時「jass」の綴りにはそうしたリスクがあったこと、そして徐々に「jazz」の綴りが主流になっていったことは確かです。
また「ジャズ」という言葉自体、ニューオーリンズの売春宿とも結び付けられ、下品な響きを持つと感じる向きもありました。例えばデューク・エリントンは「“ジャズ”という言葉は常にニューオーリンズの娼館を連想させる問題のある言葉だ」と述べ、音楽ジャンル名として好まず「できれば“黒人音楽”と呼びたかった」と回顧しています。しかし一旦定着した「ジャズ」の名称は変わることなく、現在に至るまで用いられています。
このような流れから、オリジナル・ディキシーランド・“ジャズ”・バンド(ODJB)初期にはバンド名を”Original Dixieland Jass Band”と表記していましたが、1917年の後半、公式に”Jazz”へと綴りを変更しました。このバンドは「ジャズの創始者」を自称し、初のジャズ・レコードを世に出したことで知られます。
1917年当時の“ジャズダンス”|言葉の有無と定義
1917年当時、ジャズという音楽そのものが登場したばかりであり、それに合わせて踊られるダンスがすぐに「ジャズダンス」と呼ばれていたかどうかは議論があります。結論から言えば、当時すでに「ジャズダンス(jazz dance)」という表現が使われる場面はあったものの, それは現在のように確立したジャンル名ではなく、主に「ジャズ音楽に乗せたダンス」あるいはジャズ的な即興の踊りを指す程度の言葉でした。
当時の主流な社交ダンスはフォックストロットやワンステップなどで、これらはジャズのリズムでも踊られましたが、明確に「ジャズダンス」という名称が与えられていたわけではありません。 しかし興味深い史料として、1915年のシカゴで行われたある芸能の記録があります。ニューヨークで1917年に起きたジャズ楽曲の著作権裁判に関連し、証言として提出された1915年の出来事についての証言で、「チャーリー・チャップリンの物真似という出し物、いわゆる『ジャズ・ダンス』をやっていた」と述べられているのです。この記録(1917年10月1日付の証言)によれば、「ジャズ・ダンス」と呼ばれる踊りが1915年時点でシカゴのカフェで演じられていたことになります。ここでの「ジャズ・ダンス」は、チャップリンを模倣したコミカルな踊りを指しており、当時の新奇な余興として捉えられていたようです。
こちらがフォックストロット(Foxtrot)です。滑らかな歩行とサイドステップを組み合わせた、4/4拍子のエレガントな社交ダンスです。
次に、ワンステップ(One Step)です。1910年代に流行した、2/4拍子のリズミカルな歩行ステップを特徴とするシンプルな社交ダンスです。
こうした例から、1917年前後にも「ジャズ」という言葉を冠したダンスが存在はしていたと考えられます。ただしそれは現在我々が思い描くジャズダンスとは異なり、どちらかといえば流行のダンス・ムーブや即興的な踊りに対する通俗的な呼称でした。当時のダンス文化では、黒人コミュニティにおいてはブルースやラグタイムに合わせた即興のダンスが盛んで、白人社会でもラグタイムから派生した激しい踊り(チャールストンの原型やシミーなど)が人気を博しつつありました。
しかしそれらはそれぞれ固有の名前(チャールストン、シミー、バニー・ハグ、ツイストーマー等)で呼ばれ、「ジャズダンス」という包括的名称が一般に定着するのはもう少し後のことです。実際、「ジャズエイジ」と呼ばれる1920年代に入りチャールストンが流行すると、これらは現在では「オーセンティック・ジャズダンス(黒人発祥のヴァナキュラー・ジャズダンス)」の例と見なされますが、当時は単に「最新のダンス」でした。ヴァナキュラー(vernacular)とは「その土地に根ざしている」という意味です。
したがって、1917年当時に“ジャズダンス”というジャンルが確立していたとは言い難く, むしろ後年になって当時の踊りが「ジャズダンス」と位置付けられた面が大きいと言えます。以上をまとめると、1917年前後に「ジャズダンス」という言葉は散発的に使われていたものの、それは今日の意味での体系化されたダンスジャンル名ではなく、ジャズ風の即興踊りやジャズ音楽に合わせたダンスを指すラフな表現だったと考えられます。
ニューオーリンズのジャズ文化発展と黒人・クレオールの影響
ニューオーリンズはジャズ発祥の地です。アメリカ南部ルイジアナ州のニューオーリンズは、19世紀から20世紀初頭にかけて独自の文化的坩堝(るつぼ)でした。そこでは西アフリカ由来の黒人文化と、フランス・スペイン系のクレオール文化、そしてアメリカ白人文化が交わり、ジャズ音楽とジャズダンスの源流が形作られました。ニューオーリンズで育まれた独特の音楽・ダンス文化の背景には、奴隷制度下における黒人たちの習慣と社会状況が深く関わっています。
ニューオーリンズ|コンゴ・スクエア(Congo Square)の歴史
18~19世紀、ニューオーリンズのコンゴ・スクエア(現ルイース・アームストロング公園内の一角)では、奴隷たちが日曜日の午後に集まって音楽と踊りを楽しむことが許されていました。この伝統は黒人音楽・ダンス文化の維持に大きく貢献しています。ニューオーリンズ・ジャズやリズム・アンド・ブルース、ジャズダンスの源流の一つとなりました。現在、かつてコンゴ・スクエアがあった場所に標識があります。
「アフリカ文化の表現が徐々に発展し、やがてマルディグラのインディアンの伝統、セカンドライン(葬送行進の後に続く踊り)、そしてニューオーリンズのジャズやリズム・アンド・ブルースへとつながった」と記されています。
当時、プロテスタント支配の他州ではアフリカ系の音楽・舞踏は厳しく禁じられていたため、ニューオーリンズは北米で唯一アフリカの舞踊が公然と行われた都市でした。広場ではバンブーラやカリンダ、コンゴーなどと呼ばれる西インド諸島やアフリカ由来の踊りが披露され、太鼓、バンジョー(アフリカ由来の弦楽器)、擦り木、フィドル(ヴァイオリン)など多彩な楽器で合奏が行われました。19世紀初頭には500~600人規模の観客と参加者が集まるほど賑わい、一種の観光名所にもなっていたと伝えられます。アフリカのリズムと舞踏の伝統がニューオーリンズで守られたことは、後のジャズにおけるシンコペーション(リズムの切れ込み)やブルース的表現の源泉になったと評価されています。実際、ニューオーリンズのジャズ葬列やマルディグラのパレードで演奏されるリズムには、コンゴ・スクエアで奏でられたビートの名残が認められます。
クレオール文化と人種隔離の影響
ニューオーリンズには、フランスやスペイン系の血を引くクレオール(混血)の人々と、アフリカ系黒人の人々が共存していました。19世紀まではクレオールの自由有色人(有産市民層)も多く、ヨーロッパ音楽の教育を受けた人材が豊富でした。彼らはクラシック音楽の素養を持ち、楽譜の読み書きや管弦楽の演奏技術に長けていました。一方、奴隷解放後の黒人コミュニティでは、耳伝いに学んだブルースやスピリチュアルの旋律、そして打楽器的な感覚に富んだ即興演奏の文化が育っていました。
1890年代末(いわゆるジム・クロウ法の制定時期)にルイジアナ州で人種隔離が法制化されると、クレオールと黒人の垣根が取り払われ、音楽家同士の交流が一気に進みます。クラシック訓練を積んだクレオールの演奏家と、ブルースフィールやリズム感に富む黒人演奏家が一緒にバンドを組むようになり、結果としてヨーロッパ的要素とアフリカ的要素が融合した新しい音楽が生まれました。これこそが初期のジャズです。
例えばクレオールのピアニストで作曲家のジェリー・ロール・モートンはラグタイムやフレンチ・クレオールの影響を受けつつ「ジャズ楽曲」を作曲し始め(彼は1900年代初頭に既に自作の曲を“ジャズ”と称したと主張しています)、黒人コルネット奏者のバディ・ボルデンはブルースの魂を金管バンドに持ち込み即興演奏で聴衆を熱狂させました。ボルデンは1900年頃に四拍子の2拍目と4拍目を強調するビート(ビッグフォー)を生み出したとされ、これは行進曲のリズムを崩す最初期の試みでジャズの特徴であるスウィング感の萌芽でした。
解説|ジム・クロウ法(Jim Crow laws)
ジム・クロウ法(Jim Crow laws)は、1870年代から1960年代までアメリカ南部を中心に施行された、人種隔離と差別を合法化した州法や条例の総称です。これらの法律は、アフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種を白人から隔離し、公共施設や教育、交通、選挙権などあらゆる生活領域で不平等を制度化しました。
「ジム・クロウ」という名称は、1830年代に白人俳優トーマス・D・ライスが黒人を模して演じたミンストレルショーのキャラクター「ジム・クロウ」に由来します。このキャラクターは黒人を嘲笑する存在として描かれ、やがて「ジム・クロウ」は黒人に対する蔑称となり、人種隔離政策全般を指す言葉として使われるようになりました。
ジム・クロウ法は、以下のような人種隔離を定めていました。
・公共施設の分離:学校、病院、レストラン、公園、劇場、交通機関などで、白人と有色人種を分離。
・選挙権の制限:識字テストや人頭税、祖父条項などを用いて、アフリカ系アメリカ人の投票権を実質的に剥奪。
・結婚の禁止:異人種間の結婚を禁止する法律の制定。
これらの法律により、有色人種は教育、雇用、政治参加などあらゆる面で不利益を被り、社会的・経済的な格差が拡大しました。
1954年、アメリカ連邦最高裁判所は「ブラウン対教育委員会」判決で、公立学校における人種隔離は違憲であると判断しました。これを契機に、公民権運動が活発化し、1964年の公民権法、1965年の投票権法の制定により、ジム・クロウ法は法的に廃止されました。
ニューオーリンズの街|音楽・ダンス文化
20世紀初頭のニューオーリンズには、数多くのブラスバンド(ブラスバンドの行進)とダンスホールが存在しました。黒人の葬儀ではジャズ葬と呼ばれるパレードが行われ、遺体を送った後にはセカンドラインと称する参列者の踊りながらの行進が続きました。このセカンドラインのステップや腰使いは、後のジャズダンスに通じるアフリカ系の身体表現そのものです。またストーリーヴィルと呼ばれた娼館街では、酒場や売春宿で黒人・クレオールの楽士が演奏を行い、客が踊りました。1900年代には白人バンドリーダーのジャック・レイン(通称パパ・ジャック)が黒人と白人の混成バンドを指揮し、「白人ジャズの父」とあだ名されるなど、人種を超えた音楽交流も見られました。
このようにニューオーリンズでは多文化・多人種の要素が混淆し、音楽とダンスが日常生活や行事と結びついて発展しました。その結果生まれたジャズは「アメリカ唯一の固有の芸術」と称されますが、その根底にはアフリカ大陸から新大陸に継承されたリズム・ダンス文化が横たわっているのです。ニューオーリンズがジャズ音楽・ジャズダンスの源流と位置付けられるのは、この地での独自の文化混交と歴史的背景が大きな役割を果たしたためといえます。
バディ・ボルデン(Buddy Bolden) – 20世紀初頭ニューオーリンズで活躍した黒人コルネット奏者。録音は残っていませんが、彼のバンドは初めてブルースの要素をブラスバンドに取り入れ、強調された裏拍のリズム(ビッグフォー)でダンサーを熱狂させたと伝えられます。ボルデンはジャズ以前のラグタイムとブルースの橋渡し的存在で、「ジャズの父」とも呼ばれます。
ジェリー・ロール・モートン(Jelly Roll Morton) – クレオール(混血)のピアニストで作曲家。ニューオーリンズ出身で、ジャズを楽譜に書き残した最初期の人物です。彼は自らを「ジャズ発明者」と称し、1900年代からラグタイムにスペイン風のリディアン調や即興ソロを取り入れて演奏しました。1920年代にはシカゴで自身のバンドを率い、「ジャズ・コンポジション(作曲家)」を確立しました。モートンはアフリカ系リズム(ハバネラ・リズムなど)とヨーロッパ和声の融合を体現した人物でした。
ルイ・アームストロング(Louis Armstrong) – 黒人コルネット/トランペット奏者・歌手。ニューオーリンズ生まれで、1920年代にシカゴやニューヨークで活躍し、ジャズを独奏の芸術へ高めた革命的人物です。アームストロングはスキャット唱法を広めるなど歌唱面でも功績が大きく、その温かい人柄と演奏から「サッチモ」の愛称で親しまれました。また彼はジャズのルーツについて「ニューオーリンズがゆりかご(cradle)なら、アフリカのゴールド・コースト(奴隷の故地)がその母だ」と述べたとも伝えられ、ジャズのアフリカ起源に自覚的な発言をしています。ルイ・アームストロングの音楽とステージングは後のジャズダンスにも影響を与え、彼のリズムに合わせてリンディホップなどのスウィングダンスが発展しました。
「Hello, Dolly!」は、1964年にリリースされ、彼のキャリアで唯一の全米ビルボードHot 100チャート1位を獲得した楽曲です。この曲は、ブロードウェイミュージカル『Hello, Dolly!』のタイトル曲であり、アームストロングのバージョンは、1965年のグラミー賞で「最優秀楽曲賞」と「最優秀男性ボーカルパフォーマンス賞」を受賞しました。
「ユーロ・ジャズダンス」という用語|白人によるジャズダンス様式
「ユーロ・ジャズダンス(Euro-Jazz Dance)」という言い方は、特定のダンスジャンルを指す正式な学術用語として確立しているわけではありません。しかし文脈によっては、ヨーロッパで発展したジャズダンススタイルや、アフリカ系アメリカ人以外(主に白人)のダンサーによって形作られたジャズダンス様式を指すために使われることがあります。20世紀中頃以降、ジャズダンスはアメリカから世界各地に広まり、特に欧米のダンス教育機関で独自の発展を遂げました。
その過程で、アフリカ系由来のヴァーナキュラー(民族的・庶民的)なジャズダンスと、ブロードウェイやレビューを通じて広まった演出的・洗練されたジャズダンスという二系統が生まれました。一般に前者は黒人コミュニティに根ざした即興性とリズム感に富むスタイル、後者はバレエやモダンダンスのテクニックを取り入れたヨーロッパ的なスタイルとされます。「ユーロ・ジャズダンス」という言葉が用いられる場合、それは主に後者、すなわち欧米のダンススタジオで体系化されたジャズダンスを指していると考えられます。
白人ダンサーとジャズダンスの発展
ジャズダンスの歴史を見ると、アフリカ系アメリカ人が生み出したダンスに白人のダンサーや振付師が影響を受け、それを舞台芸術や教材として体系立てるケースが多く見られます。1920年代のハーレム・ルネサンス期には、黒人ダンサーのジョセフィン・ベイカーがヨーロッパ(パリ)で大成功を収め、ヨーロッパ人にジャズエイジの踊りの魅力を知らしめました。一方アメリカではミンストレル・ショーやヴォードヴィルで白人が黒人風の踊りを真似たり、1930~40年代のハリウッド映画で白人振付師がジャズ的な踊りを取り入れたりしました。
ジョセフィン・ベイカー(Josephine Baker) – アフリカ系アメリカ人の女性ダンサー・歌手。1920年代にフランス・パリの舞台でチャールストンなどのジャズダンスを披露し、一大スターとなりました。彼女はヨーロッパにジャズダンスブームを巻き起こし、当時人種差別の残る米国を離れて欧州で成功した象徴的存在です。羽根飾りやバナナの腰ミノを着けて踊る彼女のスタイルは、ヨーロッパ人にとってエキゾチックな「ジャズエイジ」の象徴でした。ベイカーの活躍により、黒人のダンスが国際的に評価される道が開かれました。
ジョセフィン・ベーカーが主演した1935年のフランス映画『プリンセス・タムタム(Princess Tam Tam)』のダンスシーンです。ベーカー演じるチュニジア出身のアルウィナが、洗練されたパリ社会に挑む姿が描かれています。
ジャック・コールは、「モダン・ジャズダンスの父」と呼ばれ、インド舞踊やモダンダンスの要素を取り入れた独自のジャズダンス技法を確立し、多くの白人ダンサーを指導しました。彼に師事したボブ・フォッシーはブロードウェイと映画で独特のジャズスタイルを編み出し(山高帽に内股の姿勢や指先のしぐさで有名)、その作品は現在でもジャズダンスの教科書的存在です。またユージン・ルイス・ファッキュート(愛称ルイジ)やガス・ジョルダーノといった白人ダンサーたちは、ジャズダンスのレッスン体系(テクニック)を作り上げ、書籍やスタジオを通じて普及させました。
ジャック・コール(Jack Cole) – ユダヤ系アメリカ人の男性振付師・ダンサーで、「ジャズダンスの父」と称されます。1940~50年代にハリウッド映画やブロードウェイで活躍し、ジャズダンスを演劇的に洗練させました。インド古典舞踊やスペイン舞踊の動きを取り入れ、腰のアイソレーションやダイナミックな蹴り・ターンを特徴とする独自のスタイルを確立しました。彼の門下からボブ・フォッシーやマット・マトックスらが育ち、現在に続くジャズダンス技法の礎が築かれました。
『Tonight and Every Night』(1945年)は、ヴィクター・サヴィル監督による米ミュージカル映画で、リタ・ヘイワース、リー・ボウマン、ジャネット・ブレアが主演しています。第二次世界大戦中のロンドンを舞台に、空襲下でも一度も公演を休まなかった劇場「ミュージック・ボックス」の物語を描いています。
彼らのアプローチはバレエの身体訓練法を基礎に置きつつ、ジャズ特有のリズムやアイソレーション(体の部分的な分離運動)を盛り込んだもので、特にヨーロッパや日本でも広く受け入れられました。アメリカ出身で後にヨーロッパに拠点を移した振付師マット・マトックスは、ヨーロッパのジャズダンス教育に大きな影響を与え、「フリースタイル・ジャズ」と呼ばれるテクニックは現在も国際的に教えられています。 このように白人ダンサー/振付師たちは、黒人発祥のジャズステップやリズムを演劇的文脈で洗練させ、形式化する役割を果たしました。
一方で、本来の即興性やスウィング感が後退し、音楽としてのジャズとの結びつきが希薄になる傾向も生まれました。「ユーロ・ジャズダンス」という言葉が示唆するものがあるとすれば、そうしたアフリカンルーツよりもヨーロッパ的美意識が前面に出たジャズダンスであり、しばしばポップスや電子音楽にも合わせて踊られる現代的スタイルを含む広い概念と言えます。ただし繰り返しになりますが、これは厳密な分類用語ではなく便宜的な表現です。学術的にはジャズダンスを「ヴァーナキュラー(黒人起源の即興的様式)」と「ステージ/モダン(演劇的様式)」に二分するのが一般的であり、「ユーロ・ジャズダンス」は後者に包含される位置付けと考えられます。
ジャズダンスの定義が曖昧とされる背景:歴史的・文化的多様化
現代のジャズダンスの最大の難点は、多様化による定義の難しさにあります。ジャズダンスは一言で定義しにくいダンスジャンルです。その理由は、歴史的に様々なスタイルが融合し変遷してきたためです。ジャズダンスの源流は前述のようにアフリカ系アメリカ人の間で育まれた即興の踊り(ヴァーナキュラー・ダンス)にありました。曲のリズムに対する即興性、膝を深く曲げた低重心の姿勢、腰や肩のアイソレーションといった特徴が顕著でした。しかし20世紀前半以降、ジャズ音楽が商業エンターテインメントとして発展する中で、ジャズダンスもミュージカルや映画に取り入れられ、バレエやモダンダンスの要素と結びついていきました。
結果として、「ジャズダンス」という言葉自体が指し示す範囲がかなり広がります。例えば、1940年代以降ハリウッド映画やブロードウェイのレビューで披露された振付は「ジャズダンス」と称されましたが、その音楽は必ずしもジャズではなくポップスが中心でした。現在「ジャズダンス」と題するクラスが開講されていますが、ヒップホップ、ラテン、ロックなど様々なポピュラー音楽に合わせて踊るエクササイズも含まれています。さらにはエレクトロスウィングのようにジャズと電子音楽を融合した曲に合わせて踊るスタイルや、ストリートダンスとジャズダンスを掛け合わせた「ストリートジャズ」も登場しています。
このように時代ごとに取り入れる音楽や技法が変化し、多様化した結果、「何をもってジャズダンスと呼ぶか」は一概に定めづらくなっています。
キャサリン・ダナム(Katherine Dunham) – アフリカ系アメリカ人の女性人類学者・振付師。1930~40年代にカリブ海諸国の民族舞踊を研究し、自らのダンスカンパニーでそれらを舞台化しました。彼女の振付はモダンダンスにアフリカ・カリブの動きを融合させたもので、ジャズダンスにも多大な影響を与えました。ダナムは黒人文化の誇りを舞踊で表現した先駆者であり、彼女の弟子であるアルヴィン・エイリー(モダンダンスの歴史的人物)らが登場しています。
フランキー・マニング(Frankie Manning) – アフリカ系アメリカ人の男性ダンサー。1930年代のハーレムでスウィングダンス(リンディホップ)のリーダー的存在で、空中転換(エアステップ)を編み出した功績で知られます。マニングは後年までリンディホップの復興に尽力し、スウィング系ジャズダンスの「生き字引」となりました。彼のような黒人ダンサーたち(ノーマ・ミラー、アル・ミンス&レオン・ジェームスなど)の技芸は、ヴァーナキュラー・ジャズダンスとして現在も映像資料から学ばれています。
1941年公開のアメリカ映画『Hellzapoppin’(ヘルザポッピン)』です。オルセン&ジョンソンの同名舞台劇を原作としたコメディ映画で、H.C.ポッターが監督を務めました。舞台裏の混乱を描くユーモラスな作品です。
ガス・ジョルダーノ(Gus Giordano)、ユージン・ルイ “ルイジ” ファッキュート(Eugene Louis “Luigi” Facciuto) – いずれも20世紀後半にジャズダンスのテクニック体系を整えた白人ダンサーです。ジョルダーノはシカゴを拠点にカンパニーを組織し、毎年ジャズダンス世界会議を開催するなど普及に努めました。ルイジはハリウッド映画で活躍後、自身の経験(事故による半身不随からの復帰)をもとにジャズダンスの基礎エクササイズを考案し、世界中のスタジオで教えられました。彼らの教本や指導法により、ジャズダンスは世界的なダンス教養として定着しました。
ボブ・フォッシー(Bob Fosse) – アメリカ人振付師・映画監督。1950~80年代にブロードウェイ・映画で活動し、『シカゴ』『キャバレー』などの作品で知られます。フォッシーの振付スタイルは、山高帽や燕尾服を用い、内股の脚、丸めた肩、指先のしなやかな動きなど洗練された官能性を帯びています。彼のスタイルはジャズダンスの一つの完成形とされ、現在も多くの振付師に模倣・敬愛されています。
『スイート・チャリティ』(原題:Sweet Charity)は、1969年に公開されたアメリカのミュージカル映画で、ボブ・フォッシーが監督・振付を担当した彼の映画監督デビュー作です。主演はシャーリー・マクレーンで、彼女はニューヨークのダンスホールで働くホステス、チャリティ・ホープ・バレンタインを演じています。
この他、ジャズ音楽ではデューク・エリントンやチャーリー・パーカー、ジャズダンスではマット・マトックスやマイケル・ベネットなど数多くの才能が歴史を形作っています。
専門家・研究者の見解
ダンス研究者たちもジャズダンスの定義を巡って様々な議論を行っています。一部の研究者は、ジャズダンスの本質を「アフリカン・ダンスの美学を核に持つもの」と捉えています。具体的には、リズムの身体化(身体でリズムを表現すること)、コール&レスポンス的な即興、そして個性の発揮(ダンサー各自のスタイル)といった要素です。一方で、現在一般に「ジャズダンス」として教えられているものの多くは、必ずしも純粋にジャズ音楽に基づくわけではなく、モダンやバレエのテクニック練習にジャズ的な動きを加味したいわば「ジャズ風ダンス」になっているとの指摘もあります。
この見解の相違は、ジャズダンス教育における課題ともなっており、近年では本来の黒人文化に根ざしたジャズダンス(スウィングダンスやリンディホップ、ソロジャズなど)を見直そうという動きも強まっています。 要するに、ジャズダンスの定義が曖昧な背景にはその歴史的な多様性が横たわっています。初期ジャズ時代の社交ダンス、ミュージカル・レビューの舞台での踊り、モダンダンスとの融合、ストリートカルチャーとの合流。こうした各時代のスタイルが全て「ジャズダンス」の名の下に語られてきたため、単一の定義を与えることが難しくなっていますし、再度定義し直すこと自体が無意味にも思えます。
権威ある辞典も「“ジャズダンス”という用語は文脈によってはジャズ音楽とほとんど関係のない意味で使われてきた」と指摘しています。現代では、「ジャズ」という言葉が音楽ジャンルのみならずダンス様式をも指すこと、そしてその内容が時代とともに変容してきたことを踏まえ、文脈に応じて注意深く定義する必要があると専門家は述べています。
ジャズとジャズダンスの発展は、多様な人々の文化的交錯と創造性の積み重ねによって成し遂げられてきました。そのため、その歴史を紐解くときは、人種・地域・時代を超えた多くの人物の足跡を辿る必要があります。本記事で取り上げた人物たちはその一部ですが、いずれもジャズ/ジャズダンスの発展に決定的な役割を果たしたことは間違いありません。
以上、ジャズダンスという言葉の定義についてでした。
さらに詳しい【ジャズダンスの歴史】については、こちらのページもご覧ください。